まず、朱熹作の“勧学”と題した詩を読んでみよう。
謂うなかれ 今日学ばずして来日(あす)有りと
謂うなかれ 今年学ばずして来年ありと
日月逝きや 歳我を延ばさず
嗚呼 老いたり 是誰の愆ちぞや
誰の愆ちではない、自分自身の過ちである。この詩に関連して淮南子の言葉をのべてみたい。
“学ぶに暇あらずという者は暇ありいえども、また学ぶ能ず”と述べている。
学ぶ気がないから暇もないのである。学ぶ気さえあれば、いくらでも読書の時間などは見出すことができるものである。
“徐幹(後漢時代の学者)”は“学ぶ者は、才の足らざるをうれえずして志の立たざるをうれう”。学問をする人は、
自分の学識が十分でないことを心配するのではなく、自分の志が確立していないことを心配しなければならない。
この言葉について自分の恥を述べるようだが、私が最も読書に熱したのは三十才を過ぎたころであった。
その志すところは学卒者先輩に追いつき、追い越すが目標であった。三十五才で三ヶ月ほど 徴収兵として
質問があったが公務に読書に予想外の熱が入ってきた覚えがある。
三十才の終わりに、ようやく念願の目的を達したわけであったが、一段階段上がれば、もう一段と望むのが人情。
学ぶことに一段づつ位も上がる。いまは先賢の教えに感謝するのみ。
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