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人間学・古典

第85回 「先人の教え⑧ 左とん平」

令和時代の「社長の人間力の磨き方」

 左とん平(1937~2018)。いくつもの顔を持った俳優だった。それは仕事柄当然でもあるが、強いて言えば「顔の種類」が他の俳優とは違っていたような気がする。左とん平は「俳優」だったが、一流の「遊び人」でもあり、「気配りの人」でもあった。また、俳優としては喜劇、コメディの人と見られがちだが、時に哀愁の漂う、あるいはエスプリに富んだ芝居も見せた。

 左さんが70代後半の頃、元気の秘訣を酒席でたずねたことがある。「中村ちゃん、バランスよ。芝居、ゴルフ、あともう一つ、全部三分の一ずつぐらいで丁度いいんだ」。もちろん本気ではなく、戦前の東京っ子の含羞による言葉で、いささか偽悪的ではあるが、芯は真面目な人だった。ここまで書いて、ある前代未聞の記録を持つ人でもあったことを想い出した。昭和の終わりに、賭博容疑で逮捕された時には、森繁久彌が座長を勤める舞台に出ている最中だった。開演中に楽屋に来た警察を、「逃げるわけないんだから、終演まで待ってくれ」と森繁が懇願し、終演後、出頭した。事件が落ち着いたのちに、「帝劇の楽屋から警察へ行ったのは「とんちゃん」(愛称)だけだ」とからかわれた。行ったことは罪を償うべきだが、何をしても憎めないのは人柄だろう。

 

***


 高校を卒業後、まもなく芸能の道へ進み、才能を遺憾なく発揮した。テレビ、映画、舞台と多彩な活動で笑わせたが、10年余のお付き合いの中で印象に残っていることは幾つもある。浜木綿子さんとは喜劇『売らいでか』などで名コンビぶりを発揮していた。ある時、二人の場面で左さんは台詞を忘れた。その誤魔化し方に客席は爆笑した。すかさず、浜さんがツッコミを入れ、客席の笑いは更に大きくなり、二度、三度と続いた。芝居が終わって楽屋へ戻ると、廊下を挟んで向かいの楽屋の浜さんに、「おい、さっきの場面な」と声を掛けた。台詞を忘れたことを謝るのかと思っていたら、「あそこはお客さんを三度笑わせちゃダメなんだよ。二度目で、次があるかな、と思わせて、スッと芝居に戻らないと、ダレるんだ」と言った。台詞を忘れた言い訳を強引に演技論にしているわけではなく、長年、舞台に立ち続けた者の感覚から出る言葉だった。その証拠に、フォローをした浜さんが「そうね。今度、ああいうことがあったらそうしましょ。とんちゃん、ありがとう」と納得した。双方が一流で、「笑い」の何たるかを知悉していなければ、こうした会話にはならない。インテリジェンスさえ感じた。

 

***


 また、名古屋の劇場でのことだったと思う。昼の部が終わって、楽屋で喋っている間に、つい時を過ごした。「ごめん、今からちょっと食事しちゃうから」「申し訳ありません、不調法につい長居をしてしまって」「いいんだよ」との会話の間に、食事が私の分も出て来た。長い間、左さんに付いている弟子が、二人の様子や話の流れで、手配をしてくれていたのだ。「たいしたもんじゃないけど、一緒に食べてってよ。いつも一人で飯食うんじゃつまらないからさ」。私に負担を感じさせない言い方で、見事な気配りを見せてくれた。話の途中で、弟子に「食事を一人前増やせ」との合図をしたのを、私は迂闊にも話に夢中で見逃していたのだ。「飯にするから、そろそろ…」と言えばそれで済むものを、私に恥をかかせぬような配慮を見せてくれたのだ。

 芝居のどこへ出ているかにもよるが、一日二回、昼と夜の公演の合間の時間は長いようで短い。終演後すぐは、お客様の相手もしなければならず、メイクを落とし、シャワーを浴びて汗を流し、軽く食事をして一服すれば、もう夜の部の開演間近だ。公演が始まってしまえば、俳優にとって「楽屋」は仕事場であり、束の間の休憩を得る場所ともなる。長居をしないのは当たり前の礼儀なのだが、この時は仕事の話もあり、つい座を立ちそびれたのだ。

 

***


 70代に入った左さんは、今までの路線に加え、浅田次郎原作の『天切り松 闇がたり』という小説を和製ミュージカルに仕立て、小劇場での公演や地方公演を始めた。sれまでの舞台はほとんど大劇場演劇だったために、観客席との距離感が近いのが非常に新鮮だったようだ。「小劇場での芝居ってのも、面白いもんだね。すぐそこにお客さんがいて目が合ったりするんだよ。それでドキッとして台詞忘れちゃったりしてね」と笑わせたが、今まで長年立ってきた大劇場演劇の舞台に何か物足りないことを感じてもいたのだろう。

 

***


 喜劇や多少インチキ臭い役などの巧さは今さら言うまでもないが、新宿コマ劇場で2008年に上演された『星屑の町』という芝居で、冴えないヤクザの親分を演じたことがある。明け方の歌舞伎町で、出所したばかりの親分が、僅かな手下の出迎えを受け、長年一緒の女性に「ラーメンでも食って帰ろう」と引っ込むシーンがあった。女性と肩を組み、無言で去る左さんの背中に、何とも言えぬ哀愁が漂っていた。終演後にそれを告げると、「わかってくれた!いやぁ嬉しいなぁ」と破顔した。

 私は、自分の眼を誇りたいわけではない。ベテランとして引っ張りだこの立場や年齢になってなお、新しいものを渇望し、取り入れようとする。しかし、それを事々しく言うわけではない。そこに、「一流」のセンスを感じたのだ。安住できる場所にいても更に歩を進めることの大切さ、そのスマートなやり方を背中で見せてくれた、大事な師匠の一人だ。

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