コロナ禍で世界中が大変な想いをしたが、その当初の頃、日本では「芸術文化は不要不急だ」と言われた。同じ頃、ドイツでは、「こうした時に必要不可欠なのはアーティストの存在だ」と言い切った。様子が皆目わからないパンデミックの中で、それぞれの国の事情があるのは当然だが、こうも正反対のことを言われると、関わりを持つ者としては哀しいやら寂しいやら、というのが正直なところだ。
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その一方で、忘れてはいけないと自戒を込めているのは、何百年の歳月を経て、「伝統」などの文字が冠せられている文化でも芸能でも、永遠ではないということだ。例えば芸能にしても生きている人間が繋いでいく以上、時代との関わりの中で自ずと寿命はやって来る。「瞽女(ごぜ)」という盲目の女性が、主に上信越から北陸地方にかけて、三味線を弾きながら門付けをする芸能があった。この女性たちの唄を伝承している人はいるが、盲目の女性が徒歩で三人か四人で連なって歩き、村や町の決まった家で三味線や唄を披露する「瞽女」という放浪芸の形態は完全に滅びて久しい。
同様の視点で言えば、お祭りなどで露店が並ぶ中、渥美清が長く演じた「寅さん」の口上に代表されるような「啖呵売(たんかばい)」と呼ばれる芸能も、趣味で「蝦蟇の油」の口上を演じている人などは別に、生業としては滅びたものだ。
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もっと大掛かりなもので言えば、昨年の大ヒット映画『国宝』で俄かにブームが訪れた感がある歌舞伎とて、決して安泰な状態とは言えない。華やかな舞台へ立って歌舞伎を演じている役者は、まだ比較的安全地帯にいるのかもしれない。問題は、それを支える「裏方」たちの後継者不足、資材不足などの見えにくい部分にあり、解決が容易にできる問題ではないのだ。
時代劇である歌舞伎に「鬘」は必須だ。それを毎日結い直し、場合によっては新たに作る「床山」。何百種類に及ぶかわからない小道具。ちなみに、歌舞伎では、動かせるものは「小道具」、舞台装置のように動かせないものは「大道具」とされている。また、『忠臣蔵』のような大作になると、一回の上演で100人以上の衣裳が必要になる。こうした「裏方」の後継者不足は、遥かに深刻な問題を抱えている。もう一点、後継者と共に、道具を作るための資材や材料の不足の問題もある。
怪談と言えば必ず名前が挙がる『東海道四谷怪談』。その中で、主人公のお岩さんがお歯黒を付ける場面がある。そこで使われる「房楊枝」は、今の歯ブラシのようなもので、柳の枝を乾燥させて細く切り、束ねたものだ。時代劇などで時折使っている場面を見ることはあっても、我々が日常的に使うものではない。こうした小道具や、先に述べた鬘を専門に扱う床山の職人の技術、素材の不足は深刻な問題だ。
例を挙げればまだまだ出るが、これらは言ってみれば城郭を支えている石垣の石の一つかもしれない。しかし、あちこちの石がポロポロと欠けてゆくのに、手当てをしないでいれば、やがて天守閣が傾く恐れも充分にあるのだ。
もちろん、興行元とてこれらの問題を把握していないわけではない。しかし、時代と逆行するような長時間労働、マニュアル化がなかなか難しい職人固有の技術の継承などの問題を抱えており、後継者として名乗りを挙げにくい実態がある。
海外では、国によってはこうした芸術分野でも組合がキチンと整備されており、「何時以降の労働はしない」、「きちんと休日の確保を」などが徹底されているところもある。日本から海外公演に出掛けると、この組合の整然とした働きぶりに感心する一方で、時間で区切られる制度に戸惑うことも多いようだ。
さまざまな職業で「ワークライフ・バランス」の言葉に象徴される働き方が最近問題視されている。効率よく働き、オフィシャルとプライベートの境い目ははっきりする、というのは当然の理想だが、「物を創る」職業などでは必ずしも馴染まない場合もある。芝居創りもそうだし、私のように物を書く仕事も、どこまで、という線を引くのは非常に難しい。それでも、仕事は強制されているものではなく、自ら好んで行っている、というのが僅かな救いだろうか。とは言え、個人でできる範囲には限界があるのは当然のことだ。
いろいろな技術の発達で、代用品をいくらか簡単に作ることができるものもある。しかし、観る人が見れば、それが本物ではないことは一目瞭然である。そこまでして、本物にこだわる必要があるのか、との疑問もある。「それらしく」見えればよいとの意見を否定するつもりはないが、そればかりになってしまうと、先ほどの城郭のたとえではないが、本来の姿が、相当崩れたものになってしまうのではないか。
何事であれ、時代の変遷に伴う「変化」は否定はできない。40年前には家の居間に鎮座していた電話機を、今はポケットに入れてイヤホンで会話しながら歩ける時代になった。多くの指摘がされているように、便利な物を手に入れれば何かを失うのは必然の理屈だろう。しかし、明らかに危機が見えているものに対し、どう手を打つのか。ここでは「演劇」にまつわる物事を話題にしたが、これは演劇の世界だけの問題ではなく、多くの分野が抱えているものでもあるはずだ。
この際、「危機」を迎えそうな事柄を一度すべて棚卸し、日本の伝統としてどんな形で残すべきか、苦渋の判断で残すことを諦めるか、を考えなくてはいけない時期に来ているのではないだろうか。意外な物が結びつくチャンスを持っているかもしれない。
















