秀頼後継を託した集団指導体制
豊臣秀吉自らが、幼い実子の秀頼が跡目を継ぐべく成長するまでのつなぎとして、関白の地位を譲った秀次を葬り去った「秀次事件」は、豊臣体制の行方に暗雲を投げかけた。秀次が高野山に追いやられて自決したのが1595年(文禄4年)7月だが、同年の5月には、秀吉の支えであった弟秀長の死後に家督を相続した養子の秀保(ひでやす)も17歳で病死し、家系は断絶している。豊臣宗家は後継候補として秀頼一人に体制継承を期待するしかなくなった。
このとき秀頼はまだ数えで3歳でしかない。58歳の秀吉もすでに老人病が進展している。豊臣家の危機は、天下人の秀吉に忠誠を誓った諸国の大名たちにも大きな動揺をもたらす。
秀次自決から2日後、官僚派トップ、奉行役の石田三成らは体制の動揺防止のための動きを素早く始める。秀吉の指示を遵守し、後継者としての秀頼に忠誠を尽くし守り通すとの起請文を起草し提出した。「秀次に二心あり」と排除を企図したのは、三成らだったとされるが、あまりに早い対応だ。
続いて大大名のうち、織田信雄(のぶかつ)、大坂城で秀頼の子守り役を務める前田利家、宇喜田秀家が血判起請分を提出。江戸から駆けつけた徳川家康も毛利輝元、小早川隆景と連署で起請文を出し、豊臣家と豊臣体制への忠誠を誓う。
こうして、豊臣一門による後見体制は幕を閉じ、大大名らの合議による集団指導体制がスタートする。
微妙なバランスの五大老体制
企業体制にたとえれば、創業家のお家騒動で有力後継者が消えて、カリスマオーナーに残された幼な子の成長を見守るためにグループ傘下の有力企業の社長によるグループ運営合議体制を敷いたようなものだ。しかし、こうした体制では、専制的なカリスマ創業者が健在なうちはいいが、オーナーが他界した後には、各社の間で主導権争いが勃発することは火を見るより明らかだ。
秀次の遺家族が処刑された8月には、改めて家康、秀家、利家、輝元、隆景に上杉景勝を加えた六人が「御掟(おんおきて)と呼ばれる約定書を交わし、豊臣体制を脅かす行為を慎むように取り決めた。小早川隆景が亡くなった後、残る五人で「五大老」と呼ばれる体制が出来上がる。
秀吉は若いころから親しかった前田利家に全幅の信頼を置き、大坂城に住まわせて五大老の議長役と秀頼の子守り役を任せたが、3年後の慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、その翌年に利家が亡くなると、東国で巨大な版図を持つ家康は、権力欲をむき出しにし始める。
利家の葬儀を機に大坂城三の丸から前田家を追い出して秀頼を庇護下に置き、秀吉の隠居所だった伏見城を接収して、事実上、天下に号令をかけ始める。五大老体制は事実上瓦解した。
知恵者・家康は、秀吉を反面教師に世襲システムを確立
実務派トップの石田三成が、家康の振る舞いは「御掟違反である」として、家康が上杉討伐に出向いた隙に反乱の狼煙をあげたときには時すでに遅し。1600年の関ヶ原戦いの結果を待つまでもなく、秀吉恩顧の武将たちを取り込んだ家康の天下取りはほぼ完成していた。その後の15年間、大坂の陣で対決するまで家康が秀頼を温存したのは、江戸に開府した徳川政権の基盤が固まるまでの権威付けでしかなかった。
その家康が反面教師としての秀吉から学んだことがある。それは世襲体制をシステムとして盤石にすることだった。官僚システムを整備した上で、基本的には出来の悪い子でも後継者として世襲で体制を引き継がせること。後継者候補確保のために大奥を設けて子づくりに励むこと。実子に恵まれない場合には、一門から世継ぎを迎える御三家、御三卿の体制を確立し、徳川将軍家は世襲で十五代、260年の長きにわたって繁栄したのである。(この項、今回で終了)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『秀吉と秀長−豊臣兄弟の天下一統』柴裕之著 NHK出版新書
『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎著 中公文庫
『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』池上裕子著 講談社学術文庫






















