「人種差別する側も歪んだ制度の被害者である」
南アフリカ時代のガンジーは、イギリス市民として得た弁護士資格で企業弁護士として活動するかたわらで、インド系移民に対する植民者・大英帝国のいわれのない差別を撤廃する運動にインド人としてのめり込む。
まずは白人による植民地としての南アフリカに存在する人種差別法の撤廃に向けた合法的な陳情活動を組織する。だが1894年から12年間に及ぶ陳情運動はまったく成果を得られなかった。
差別というものは、差別する側の差別される側に対する根拠のない「優等意識」に裏打ちされていて、その偏見は強固なものだ。われわれ日本人の身の回りでも、アジア人に対する謂れのない優等意識、あるいは法的には差別が存在しないことになっている一部被差別集落に対する劣等民扱いは、厳然として国民の意識の中に存在する。
インド人という、被植民者でありながら、南アフリカにおける中間的な立場で受けるさまざまな差別に対してガンジーは複雑な感情に襲われる。「ロンドンにおいて受けなかった被差別の扱いは、隠されたものであって、根本的に住民に自治を認めない植民地制度にこそ原因がある」と気づく。
ガンジーの優れたところは、南アフリカ生活の初日に暴力を伴う差別を受けながら、暴力を振るった白人に対する恨みに向かわなかったことにある。「人種差別する側も、この歪んだ社会制度の被害者である」という、俯瞰的視点を失わなかったことである。
非合法抗議運動への転換
強固な差別構造に対して合法的な抗議・陳情運動が功を奏さないことを知ったガンジーは1906年から、南アフリカでは非合法とされた集団的実力行使(デモ)を組織することになる。インド移民に対する強制的な指紋押捺制度導入や、キリスト教以外の結婚式の禁止などに、集団的抗議運動を展開するよううになった。あくまで暴力的手段は用いず、いうならば、集団的不服従運動を開始し、徐々に効果を上げ始める。
こうした活動を通じて、最大の問題として、祖国インドが大英帝国によって植民地統治されている矛盾に目を向け始める。農村地帯からは、綿花が搾取されて、身につける綿製品は輸入に頼らざるを得ない。工業製品は英国から持ち込まれ、英国にとっては、巨大な人口を抱えるインドは、中国と並ぶ巨大な市場でしかないことに気づく。植民地エリートとして暮らしてきたガンジーは、植民地からの脱却に闘争の目標を切り替える。
インド自治を先延ばしする英国に裏切られる
目標を祖国の植民地からの脱却に見定めたガンジーは1914年、南アフリカを発ってロンドンをへて祖国に戻る。折しも英国は第一次世界大戦の渦中にあった。ドイツとの総力戦で兵員不足が深刻化した英国は世界中の植民地から兵士を募る。インドに対しては、引き換えに将来の自治を約束する。その先に独立の道が開けると信じたガンジーは、インド人に対して英国植民地軍への志願を呼びかける。約7万人のインド人兵士が戦死している。
しかし、英国が勝利しても、自治の約束はのらりくらりと先延ばしされる。逆に英国は傀儡のインド帝国政府を通じて、一切の抗議活動を禁じるローラット法(1919年)を発布して各地でインド人を武力で弾圧し、多くのインド人が虐殺された。
英国の裏切りに、ガンジーは一気に独立を目指す不服従運動の強化を国民に呼びかける。独立闘士の意思は固まった。「武力、暴力を用いず世界帝国を追い詰める」と。
(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『ガンジー自伝』マハトマ・ガンジー著 蠟山芳郎訳 中公文庫
『ガンディーの真実』間永次郎著 ちくま新書です























