「新王」秀吉―「関白」秀長の噂広がる
豊臣秀吉が全幅の信頼を置いた弟の秀長だが、「秀長後継」の構想と実現可能性はあったのだろうか。
秀吉が関白という朝廷の最高地位を手に入れた1685年(天正13年)、秀吉は数え年で49歳、四つ年下の秀長は45歳。今ならともに働き盛りだが、当時の感覚では初老の年齢である。そろそろ跡目を息子に譲って隠居してもいい年格好だ。この年、秀吉は秀長を伴って天下統一の挨拶に宮中へ参内している。南都の奈良ではまことしやかにこんな噂が立った。
「秀吉は王、秀長は関白、家康は将軍となる」と。
当時、南都では興福寺、春日大社などは、豊臣政権が寺社領地を取り上げるのではないかと疑心暗鬼だったから、「秀吉が天皇に取って代わって新しい王として権力を簒奪(さんだつ)する」との噂を流し、新政権の動きを牽制する意図もあったかもしれない。
翌年、日本の政治に深く関与していたイエズス会の宣教師、ルイス・フロイスも教団のインド管区長あてに「天下統一が完成すれば、国を弟の秀長に渡すと秀吉が述べた」と報告しているから、この時点で「秀長後継」の動きが実際にあった可能性は否定できない。
カリスマ創業者が求めるのは従順な代行者
このころ、関白秀吉の仲介で、有力武将らに朝廷の官位が授けられたが、その序列では、関白秀吉に次いで、織田信雄(のぶかつ)-徳川家康-秀長-秀次の順となっている。信雄と家康は、小牧長久手の戦いで秀吉軍を敗退させながら、秀吉の政治工作で帰順を余儀なくさせられた経緯を考慮して、高い地位につけている。豊臣政権のナンバー2は秀長だった。
関白となった秀吉は、国分けを実施したが、秀長には和泉、紀伊、大和を、甥の秀次には近江を、秀次の弟には丹波を、それぞれ与え、自らは中枢の山城、摂津、河内を領有することとした。畿内全域を豊臣一族に割り振り政権の基盤を固めた。
まだ秀吉に実子が誕生する前で、後継問題は秀吉の悩みの種だった。秀長は後継者というよりも、絶対に逆らわない忠実な二人者として設定した。
秀長も若いころから、軍事面で秀吉を全面的に補佐しつつ、短気な兄の及ばない外交、政治能力を駆使して政権基盤固めに奔走してきた。その彼に寺社勢力の抵抗を無視できない大和を任せたのも、その能力を買って、「忠実な代行者」としての重用だった。
秀吉のように、何もないところから、抜きん出た能力と才覚で一代財を築いたカリスマ的組織経営者というものは、ナンバー2を代理者として重用するが信用はしない。優秀、有能であればこそ、いずれ自らの地位を脅かすのではないかという疑心暗鬼にとらわれているものだ。豊臣兄弟の間柄も同じようなものだろう。それを知る秀長は、死ぬまででしゃばった真似はしない。補佐役に徹した。
身から出た錆
秀吉に長子・鶴松が誕生したときにはいずれ関白の地位を、決して裏切らない秀長に譲り、鶴松を後継者として育て上げる後見役を託したことだろう。しかし、1591年(天正19年)1月、晩年病気がちだった秀長は世を去る。不幸は続く。8月には、跡目を託す希望だった鶴松も2歳で死んだ。
その後に生まれた秀頼は秀吉にとって天が使わした希望の明かりだったが、かつての秀長役を期待した甥の秀次は、秀長とは違い、野心を隠さなかった。いや、老いてますます疑心暗鬼となった秀吉には、甥さえも、自身を、そして秀頼の存在をも脅かすナンバー2にうつった。そして一族もろとも抹殺してしまう。
ひとえに、実子以外のナンバー2による後継体制を計画的に築けなかったカリスマ創業者・秀吉の身から出た錆のなせる業だった。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『秀吉と豊臣一族研究の最前線』河内将芳編 日本史史料研究会監修 山川出版社
『秀吉と秀長ー豊臣兄弟の天下一統』柴裕之著 NHK出版新書
『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎著 中公文庫




















