成り上がり秀吉の弱点
主君、織田信長が成し遂げられなかった天下統一の夢を引き継いだ豊臣秀吉は、信長を謀反で殺した明智光秀を大山崎の戦いで葬り去り、一気に天下人にのし上がった。当然のことながら、次の作業はライバルである柴田勝家、徳川家康を打ち破り政権基盤を固めることと、世襲での永続政権づくりに向かう。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』は、すでに賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦で柴田勝家を破り、13日放映分で、最大のライバル徳川家康・織田信雄の連合軍との最終決戦(小牧長久手の戦い)が描かれた。秀吉は、この戦いで軍事的には敗れながら、政治的にかろうじて家康を抑え込んだ微妙な結果を受けて、政権を永続させるためにも後継世襲体制の確立を急ぐことになる。
農民出身ながら一代で天下人に上りつめた秀吉の最大の弱点は、周囲がその名だけでひれ伏すような名門の家系を持たないことだった。そのために秀吉は、朝廷に取り入り、しかるべき地位を得るとともに、秀吉から始まる世襲家系を構築する必要があった。
後継者選定作業の揺れ
戦乱を鎮めて天下統一を成し遂げながら、わずか二代で滅んだ豊臣家の悲劇を見るとき、世襲後継者選びでの方針の揺れに注目せざるを得ない。現代の企業継承においても直系の男子に世襲させることが多いが、直系の男子になかなか恵まれないケースもあるだろう。そういう場合に継承者選定方針が途中で変更されると混乱を招くことになる。秀吉の方針の揺れは、あってはならないケースとして参考になるだろう。
大河ドラマで描かれているように、秀吉は、全幅の信頼を置く実弟の秀長とともに権力掌握の階段を上っていく。武家としての前代までの家系はなくとも、兄弟二人が男子に恵まれたなら新たな天下人の家系はつつがなく継承されただろう。
しかし、秀吉は、正室の北政所(きたのまんどころ=ねね)との間に男子どころか子がなかった。側室に迎えた淀殿(よどどの=信長の妹の娘)との間に生まれた長男鶴松は夭逝し、待望の秀頼(ひでより)をもうけるのは、秀吉晩年のことだ。
秀長は、与一郎という名の子があったと伝えられるが、戦死、あるいは病死している。そして秀吉の豊臣家世襲方針は定まらず揺れるのである。
養子戦略による初期の一族形成
一門の後継候補不足を補うために秀吉がまず取り組んだのは、一門内外の優秀な若者を養子に迎えることだった。一門内からは、実姉の息子二人(一人は、秀次で、のちに詳しく述べる)、つまり近親の甥たちだ。能力よりも血筋重視だ。
一門外から養子を迎えたのは、織田信長家臣として働いていたころに遡る。まずは信長とのつながりで一家の存続を確保することが栄達の道と考えたのだろう。
最初の養子は、信長の五男にあたる(四男説もある)於次丸(おつぎまる)である。羽柴秀勝と名乗らせた。秀吉が信長から戦功を認められて長浜を所領として与えられたときで、信長に取り入る狙いもあった。信長にすれば、勢力を張り始めた秀吉を牽制する思惑がある。実質的な長浜統治権は羽柴姓を名乗る秀勝に与えた。しかし、本能寺の変で信長が亡くなると、秀吉は秀勝を信長遺家族抑え込みの狙いで利用し、関係は微妙に変化してゆく。
いずれ自分にも男子は生まれるとの思惑から、跡取りというより、政略家としての秀吉らしい養子迎えだった。まだ、後継者問題での深刻さはみられない。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『秀吉と豊臣一族研究の最前線』河内将芳編 日本史史料研究会監修 山川出版社
『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎著 中公文庫
『日本の歴史 15 織豊政権と江戸幕府』池上裕子著 講談社学術文庫

















