
知的生産に必要なのは「技術」か「センス」か
この8月に新刊書を出しました。山口周さんとの共著の『知的生産のセンス』(日本経済新聞出版)です。
梅棹忠夫氏の名著『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)は具体的な知的生産の方法論を提示し、広範な読者を獲得しました。タイトルが示す通り、この本は知的生産を技術(=スキル)の体系としてとらえています。どのように情報を収集・整理し、どのように発想し、どのように他者に分かるように伝えるのか――「こうやったらうまくいく」というスキルを伝授するものでした。
僕たちの本のテーマはスキルではなく、スキルを超えたところにあるセンスの方にあります。センスはその人に固有の判断と選択、さらにはその背後にある基準を問題にしています。どの情報に注意を振り向け、そのうちの何を記憶し、何について考え、何を他者に向けて発信するか。知的生産は大小さまざまな判断と選択の連続です。裏返せば、知的生産は「捨象」の連続でもあります。どの情報には注意を振り向けないか、何をため込まないようにするか、自分にとって思考し発信する意味や価値がないものは何か。情報が氾濫するいま、こうした判断に基づく選択が知的生産の中で重みを増しています。
生成AIが加速させる「スキルのデフレ」
『知的生産の技術』の刊行から半世紀以上が経ち、インターネットや生成AIなどのテクノロジーの登場で、知的生産の焦点と人間の役割は大きく変わりました。生成AIに限らず、あらゆる技術の本質は「人間がそれまでやっていたことの外部化」にあります。従前は人間が担っていたスキルがどんどんAIへと外部化されていく。生成AIが日常のものになりつつあるいま、「スキルのデフレとセンスのインフレ」はいよいよ加速しています。
「生成AIはツールに過ぎない。AIができることは任せるにしても、人間にしかできないことは残る」――誰もがそう言います。その境界がどこにあるのか。この問いは、そっくりそのままスキルとセンスを対比する議論に重なります。すなわち、今後はスキルと呼ばれてきたものの多くを生成AIが担う。生成AIを使いこなせれば、誰もが外部化されたスキルを利用できる。人間の知的生産のカギはセンスへと集約されていく。生成AIはセンスの正体を浮き彫りにしています。
山口周さんは僕が知る同業者の中でも、もっともセンスに優れた人物の一人です。人間の側に残された知的生産のセンスとは何か――この大きな問いを山口周さんとじっくり考えてみたいというのが本書をつくるに至った動機です。
知的生産をつくる4つのステップ
何らかの情報や知見に接してそれを自分の中に取り込み、それを自分なりに整理し思考の素材として保存しておく。保存してある素材を料理して自分の考えや見解に変換し、それを言語的な成果物として提出する――知的生産は入力(インプット)→保存(ストレージ)→変換(コンバージョン)→出力(アウトプット)というプロセスをたどります。もちろん常にこの順番でリニアに進んでいくわけではありません。実際の知的生産はそれぞれのフェーズを行ったり来たりするものですが、議論を分かりやすくするために、この本ではこの4つのステップに分けて対話を進めていきます。
センスに「正解」はない
「こうやったらうまくいく」――スキルには客観的な「正解」があります。これに対して、センスは千差万別です。「その人に固有の判断基準」という定義からしてセンスは主観の次元にあります。
一般論としてどうあるべきか・やるべきかを論じるのではなく、自分を主語にした話をする――これが本書の基本的なスタンスです。僕たちが普段の仕事で何をどのようにやっているか。どういうことはしないようにしているか。それはなぜか。山口周さんにしても僕にしても、それなりに紆余曲折を経てきました。知的生産者として試行錯誤してきた挙句にたどり着いたそれぞれの判断基準や原理原則を突き合わせることによって、知的生産のセンスの輪郭を描いてみたいというのが『知的生産のセンス』の意図です。お読みいただければ幸いです。
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