武家と朝廷の争いの歴史
平氏政権を滅ぼして源頼朝が鎌倉幕府を開いたとはいえ、日本全国の支配者の地位から権威の象徴に転落した朝廷(皇族と公家)との間で経済利害がぶつかる。当初、幕府の主な収入源は、朝廷に幕府直轄地として認めさせた関東八か国からの年貢と、平氏から取り上げた荘園からの徴税手数料だった。後鳥羽上皇は、わがもの顔の幕府に挑戦(承久の変)するが、敗北する。このことによって、朝廷の荘園の多くも幕府の支配下に入ることになる。
農本主義の鎌倉幕府の経済基盤は平安時代以前の古代的土地支配の域を出なかった。
しかし、鉄製農具の普及などで農業生産力が上がってくると、商業、手工業に携わる農民が土地から離れて専業化する。その交易、生産に対する課税が為政者の収入源として浮上してくる。
貨幣が収入の代替物となる胎動が見えるのが鎌倉後期。さらに13世紀後半の2度にわたる元寇で御家人たちが奮戦し、モンゴル・高麗連合軍を撃退したが、内戦ではないから、御家人に与える土地がない。軍功によって御家人に褒賞としての土地支配権を与えて御家人はその恩に答えて滅私奉公するという幕府の支配構図が揺らぎ始める。
これに着目したのが後醍醐天皇だった。朝廷の支配権の回復を目指して挙兵するのである。
詰まるところ、新しい時代の経済支配権の争奪戦が勃発する。古今東西、政治を動かすのは経済なのだ。
不満分子を糾合する後醍醐
後醍醐は戦略家である。強大な幕府軍に対抗する武力をいかに手に入れたか。大きく二つある。一つは足利尊氏(あしかが・たかうじ)、新田義貞(にった・よしさだ)ら、執権として幕府を動かす北条一族の土地利権分配の停滞に不満を持ちはじめた御家人の棟梁たちだ。不満分子たちは、その処理を尊氏、義貞たちに持ち込むようになっていた。その二人を後醍醐は巧みに取り込み、自前の武力を調達した。
もう一つは、商工業の発達で力をつけてきた土地の縛りを外れた流浪の民たちだ。楠木正成(くすのき・まさしげ)は、いまだに素性がよくわからないが、商工人、流通・運輸業者らの親方のようなものだ。運輸・流通を担っているから、諸国の事情に詳しく、旧来の支配地域単位を超えて広範なネットワークを持っている。正成は、後醍醐の政権奪取闘争の中で命を落とすが、正成軍はネットワークであるから生き残る。彼らは後醍醐による鎌倉幕府からの権力奪取(建武新政)を支えた。
貨幣経済と社会発展
後醍醐は、土地と一定の距離を置き始めて二次産業、三次産業が台頭してくる時代の流れを巧みに利用し、鎌倉幕府を倒したが。その後がいけない。
朝廷の復権に期待する公家、寺社の権利復活要求を優先するあまり、複雑に入り組んだ地権の整理で泥沼に陥って武家の反発を買い、京都(権力)から追放されてしまう。それを収めたのが足利尊氏である。14世紀の戦乱を大きく見るとそういうことだ。
尊氏は土地問題に関する訴訟制度を確立して収め、室町幕府を開くが、彼は、権力構築にあたって商工業重視という時代の要請を忘れなかった。室町幕府は将軍の代を重ねるごとに鎌倉時代と違い重商主義の傾向を増してゆく。
荘園などの土地争いを穏便にしのいだこともあり、鎌倉幕府に比べて、直轄地は圧倒的に小さく、その分、商工業を保護し、各種の税(棟別銭など)を課す。関所、港では通行料として運輸流通業者らから関料、津税を納めさせ、土倉や酒屋と呼ばれる高利貸しからも「役」という名前の税を徴収する。
三代将軍の足利義満(よしみつ)の時代には中国との間で日明貿易を開き、大きな利益をもたらした。税は主に貨幣で支払われ、明から永楽通宝がもたらされて基軸通貨として利用されるようになる。
土地支配の概念にこだわり続けていては、こうはならない。同時代では気づきにくい社会の変容を先取りする気風が室町時代にはみなぎっている。応仁の乱の印象が強く、一見、停滞の時代のように見られがちだが、実はそうでない。庶民層による文芸、文化が花開くのもこの時代だ。
ひるがえって令和の時代を見てどうか。世はIT時代だ、グローバル経済の時代だとして、企業人は必死に新しい時代に対応しているのに、政治家たちは、政治資金の詐取、隠匿にちまちま気を取られている。彼らに時代を見通す能力と発想、そして気概はないのか。政治に関しては、絶望の時代である。
商工人に期待しよう。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『日本の歴史 8 南北朝の動乱』佐藤進一著 中公文庫
『異形の王権』網野善彦著 平凡社ライブラリー