ナチスによる「世界三分の計」
ナチス・ドイツを率いるヒットラーには、無謀とも思える野心的な計画があった。世界を三分割統治するというものだ。欧州中央部に位置するドイツが生き残る道として、東はソビエト・ロシアを駆逐し、西はフランスを統治下に置いて、欧州大陸をドイツが支配する。米国には西半球(南北アメリカ大陸と周辺海域)を影響下に置くことを認めて欧州への関与を遠ざける。英国は海洋国家として海外領土の支配にのみ甘んじさせる。あまりに無謀な計画だが、ヒットラーは、このグランドデザインに基づいて周辺国への侵略を開始している。
とはいえ、東西両戦線での同時侵攻はできない。まずはポーランド侵攻で同国をソ連と分割統治したところで、独ソ不可侵条約を結んで、東部の戦線を安定させた後、西に向けた電撃作戦決行のタイミングを探っていた。。
ポーランド侵攻(1939年8月)で英仏はドイツに宣戦布告したものの、ポーランドの降伏で守るべき相手を失い、西部戦線でも不気味な静寂の時が流れる。
講和をめぐり二分された英国閣議
英国では、奇妙な政変が起きていた。議会で野党労働党から「ヒットラーをつけあがらせたのは、保守党政府の宥和(ゆうわ)政策にある」として、38年9月のミュンヘン協定でヒットラーにチェコスロバキアへの侵攻を許した首相チェンバレンに対する問責の動きが噴き出す。追い込まれたチェンバレンは辞職し、40年5月10日、海軍相で、宥和主義に批判的だったチャーチルに戦時挙国一致内閣を組閣せよとの大命が下った。
この日を見計ったように、ドイツ軍は西部戦線北部で電撃作戦を開始する。空軍機の支援を受けた機甲師団が一気に侵攻し、オランダ、ベルギーはまもなく降伏し、ドイツ軍はフランス国境を破り雪崩れ込んだ。これによってフランスの国境防備に派遣されていた英国軍部隊とフランス軍が南北に分断され、ドーバー海峡に面したダンケルクに40万の将兵が取り残された。ドイツ軍は総攻撃の構えを見せて部隊は全滅の危機にあった。
チャーチルが主宰する戦時閣議は、ヒットラーとの和平協議入りか、徹底抗戦かをめぐり連日、大激論が交わされることになる。チャーチルは、「ナチスの野望に屈するべきではない。本土決戦も覚悟するべきだ」と主張するが、外相のハリファックスは、「数十万の将兵を見殺しにするのか。とりあえずは、ヒットラーと講和の条件を探るべきだ」と現実論を展開する。
チャーチルの心も揺れ動く。パリへ日帰りで飛んでフランス首相・レノーと会談するが、フランスは厭戦気分が強く降伏まで口にするのを聞いて絶望的にもなった。
チャーチルの決断
チャーチルに徹底抗戦の決断をさせたのは、名もなき市井の国民の声だった。お忍びで街へ出て、市場で、地下鉄車内で庶民に問いかけた。「戦わずしてヒットラーと妥協をするのがいいのか、たとえ敗れても名誉ある戦いに立ち上がるのか」。チャーチルは国民の間に横溢する戦意にかけることにした。
だが、本土に立てこもって抗戦するにしても、ダンケルクで40万人もの将兵を失っては、上陸してくるドイツ軍を海岸線で撃退することもできない。彼は国民に民間船の供出を呼びかける。軍艦に加えて客船、貨物線、ヨットからはしけまで900隻もの船がドーバー海峡をピストン輸送して、ドイツ軍の猛攻を凌ぎつつ、36万人の兵士を本土に帰還させた(死者1万人、捕虜3万人)。
名誉ある撤退は、国民を結束させ戦意を高揚させた。そしてチャーチルは撤退作戦が完了した6月4日、下院で徹底抗戦演説を行い国民を鼓舞する。
「多くの歴史ある有名な国々がゲシュタポやナチス支配の嫌悪すべきすべての組織の手に落ちることがあっても、我々は決して動揺、屈服はしない。我々はフランスで戦い、海で、大洋で戦う。一層の自信と力をもって空で戦う。いかなる犠牲を払おうとも、この島を守る。我々は海岸で戦い、敵の上陸地点で戦う。野原で戦い、街で戦い、山々で戦う。我々は決して降伏しない」 (この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
「第二次世界大戦 1、2」W・S・チャーチル著 佐藤亮一訳 河出文庫
「ダウニング街日記 首相チャーチルのかたわらで 上」ジョン・コルヴィル著 都築忠七ら訳 平凡社
「危機の指導者チャーチル」冨田浩司著 新潮選書



















