包囲された秦がとった同盟個別撃破策
強大な敵に協同して対処する同盟、いわゆる合従(がっしょう)策は強力なようでいて実は弱点がある。同盟を結ぶ各国の利害と思惑が異なるからである。中国古代の戦国七雄のうち、西辺の秦の東部に南北に連なる六国(燕、趙、韓、魏、斉、楚)は、経済力、軍事力が突出し始めた秦への対応を迫られて合従論を説く外交戦略家の蘇秦(そしん)の説得に応じて同盟は結んだ。だが、隣接する国同士はそれぞれに国境紛争も抱えていた。6つの国は、連合軍で二度の戦いを秦に挑んだが、敗れた。それぞれ全戦力を傾注するわけにはいかない。留守にした国境が心配だからだ。
その情況下で、「国を守るためには、個別に強大な秦と結んで周辺国との戦いに備えた方が現実的だ」と説く戦略家が現れた。張儀(ちょうぎ)だ。彼は合従策に対抗してこの「連衡(れんこう)策」を持って遊説に回る。だが、どこでも受け入れられず、秦に向かう。恵文王は、この連衡策を合従包囲網の個別撃破に使えるとして採用する。張儀は同盟の一員で故郷でもある魏との戦いを指揮して破り、秦との同盟に成功する。「このまま秦に攻撃されても、他の国は頼むに足りないぞ」と魏を説き伏せたのだ。
この功績で張儀は秦の宰相に就き、連衡策は、小国の生き残り策から、大国による対抗同盟を切り崩すため戦略方針へと変貌を遂げた。
外交と謀略は紙一重
外交とは国の存亡をかけたリアリズムである。2月末に始まった米国とイスラエルによるイラン奇襲を見るまでもなく、外交と軍事力行使は国際政治の表と裏だ。生き残りのためには謀略も厭わない。張儀も、包囲網を個別に撃破するためには、えげつないほどの策略を用いた。
前313年、張儀は対楚工作に乗り出す。楚は長江流域と以南の広大な地域を版図とする大国だ。現在の山東省にあった斉と強固な同盟関係を築いていた。斉は七雄の中で最も東に位置するが、秦がのし上がる前は天下取りに最も近い国でもあった。秦としては、なんとか両国を切り離したい。
張儀は楚の懐王に対し、斉との同盟破棄の対価として、国境地域の土地六百里四方の割譲を持ちかけた。懐王は喜んでこれに応じて同盟を解消した。ところが、約束の土地を受け取りに楚の将軍が現地に行くと、張儀は、「約束は六里四方だ」と平然とうそぶく始末だ。激怒した懐王は、兵を送るが大敗を喫し、楚の影響力は衰える。張儀は、懐王を激怒させて戦いに引きずり込むことも織り込み済みだったのだ。
「遠交近攻策」の補完で秦による統一へ
秦の恵文王が亡くなり武王の代になると、張儀は疎んじられて秦を去るが、前3世紀に入り、范雎(はんしょ)という外交遊説家が新たな外交理論「遠交近攻策」を秦にもたらし、戦乱が続く中国は統一に向けて前進する。
時は昭王の時代。秦は、東の強国・斉を天下統一への最大の障害と見て、戦いを仕掛けるがうまくいかない。意見を求められた范雎は発想の転換を王に促した。「近隣の韓や魏を越えて遠くの斉を討とうとするからうまくいかないのです。まず、遠くの斉と関係をよくして交わり、わが国と接する韓、魏を攻め落とすのが容易いでしょう」。
「遠交近攻」というと、「遠くの敵と結んで近くの敵を挟み撃ちにする」と単純化して考えがちあが、范雎が進言した策は、さらに精緻なものだ。順を追ってシナリオを書けばこういうことになる。
1、遠国の斉とは、戦いに勝っても勝ち取った領土を維持できないから事を構えず良好な関係を築いておく。
2、隣接する韓と魏は小国であるが、歴史的に天下取りの要地である中原の地を占めている。統一国家だった周王朝の後継者としての正統性を自認しており気位が高い。辺境からのし上がった秦を軽んじているから、へりくだったふりをして賄賂を使ってでも盟友関係を結ぶ。。
3、韓と魏を取り込めば、中間地帯にある趙も南方の楚も、秦の力に恐れをなしてなびく。両国がなびけば、最も東方にある斉もなびくだろう。
4、ここで隣国の韓、魏を攻めて滅ぼし、すでに骨抜きになっている周辺国を順に討伐し、天下を平定する。
壮大なドミノ式領土拡大シナリオだった。
実際に前3世紀の秦は、遠交近攻策で補完された「連衡策ver.2」ともいえる外交戦略を駆使し、次第に各国の抵抗力を削いでいった。秦王・政(始皇帝)による統一(前221年)は、準備された壮大なシナリオの最後の一押しだったに過ぎない。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『世界文学大系 5 史記・列伝篇』司馬遷著 小竹文夫、小竹武夫訳 筑摩書房
『中国古典文学大系 7 戦国策』劉向編 常石茂訳 平凡社


















