君臨すれども統治せず
財閥企業というものには最大出資者としてのオーナー家がいて経営者がいた。両者が一致する場合もあれば、距離を保つ企業運営の方式もある。先に見た三井家の場合と同じように、江戸時代に発展した住友家にも家憲(創業家憲法)があったが、両者には根本的な違いがある。
比較的に創業家の経営への関与の度合いが強い三井家では、明治以降の近代化過程でも、創業家の影響力保持に要点を置いて、本家分家の一族結束と資産の分散を防止することに重点を据えている。
これに対し、番頭が経営を取り仕切っていた住友では明治以降、「信用を重んじ」「浮利を追わず」という営業原則に特化してゆくのは前回見たとおりだ。
さらに住友家には、特殊な事情が生じた。明治20年代、住友家には、健康な男子がなく、家系が途絶える危機を迎える。番頭たちはオーナー家に外部から人を迎えることにして、名門の華族である大徳寺家から養子をとった。これが、第十五代当主の住友友純(すみとも・ともいと)だ。友純の兄は、元勲・西園寺公望(さいおんじ。きんもち)で、番頭たちは、経営の難局にあたるとその政治力を活用することになる。住友家は出資者の立場に後退し、「当主は君臨すれども統治せず」の原則が確立されていった。
外部人材の積極登用
三菱のようにオーナー家とカリスマ経営トップが一致しているのとは違い、住友の場合、組織が大きくなるにつれ、多様な経営人材が必要になる。住友が産んだ戦前の名経営者の一人として前回触れた鈴木馬左也(住友三代目総理事)は「事業は人なり」のモットーを掲げて、外部人材の招聘、育成に力を入れた。
1904(明治37年)年に総理事に就任するや、3年後には、いち早く学卒者の定期採用を始める。さらに、自らが内務官僚だった鈴木は、各省の優秀な官僚や司法関係者を採用し、重要ポストにつけた。鈴木以降、経営トップの総理事は、四代続いて官僚、司法官出身の中途採用組が務めている。国策に寄り添うようにして堅実な発展を遂げてゆく。
苦難を越える遺伝子
およそ会社という組織は、傑出した才覚の持ち主が事業を起こして基盤を築き、その子孫が最大の出資者として経営を引き継いでいくものだろう。これは財閥を引き合いに出すまでもなく、中小の会社、商店でも同じことである。オーナー家から安定的に才覚者が出るのなら何の心配もいらないが、そうはならないのが世の常の姿だ。財産の保全の観点だけならば、業績好調のうちに高値を提示する買い手に売ればいいが、組織の保全の観点から言えば、内部で良き経営者を育て、あるいは見つけて任せることになる。住友のケースは、それを思わせる。
戦後、G H Qの財閥解体の動きに、住友はスムーズに対応した。住友本社の解散に当たり、最後の総理事で久々の生え抜きの古田俊之助(ふるた・しゅんのすけ)は敗戦国の悔しさをこらえて言った。
「(傘下の各社は)精神的な繋がりをもって、できるだけ緊密な連絡協調を保ち、たすけ合いながら日本再建のために努力してほしい」
解散から5年後、各社の経営トップらは懇談組織の白水会を結成する。住友グループの再編に動く。
古田は、敗戦直後、置き土産として、大正時代の「商社不要」の決断以来タブーとされてきた商社部門を設立しておいた。解散から六年後、商社部門は、住友商事と改称し、グループの中核商社として戦後の復興、高度成長時代を、そしてグローバル時代の日本を率いている。
苦難を乗り越える知恵は、オーナーと距離を置いた専門経営人材の中に生きていた。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』菊地浩之著 平凡社新書
『財閥の時代』武田晴人著 角川ソフィア文庫