大国への帰順か徹底抗戦か揺れる高句麗
長城というと、紀元前から中国の歴代王朝が北方の異民族の侵入を防ぐために築いた万里の長城を思い浮かべるだろう。だが、中国の侵入を防ぐために築かれた長城が存在する。中国東北部から朝鮮半島北部に存在した高句麗(こうくり)が7世紀に、隋・唐の侵略を防ぐために築いた「千里の長城」だ。遼東半島から東北に数百キロに及ぶ。
島国の日本では考えられないが、朝鮮半島の国々にとっては古代から中国は目の前の圧倒的脅威だった。現在もそうである。外交を誤ると中国に踏み潰されてしまう。
6〜7世紀の朝鮮半島には、北に高句麗、南西に百済、南東部に新羅の三国がしのぎを削っていた。中国で漢帝国が滅んで以降、中国は南朝と北朝が対立し、朝鮮の三国も、南北朝にそれぞれ朝貢使節を送りバランス外交を展開していればよかった。だが、589年に隋が建国されると東アジア情勢は一変する。
とくに隋と国境を接する高句麗にとっては一大事だ。翌年には使節を送り様子をうかがうが、隋の文帝は強気で領土割譲も要求する。恭順の意を示すべきか、強硬策を取るべきか、王朝は揺れる。
語り継がれる安市城の戦い
高句麗が朝貢を見送ったことに怒った文帝は、598年に水陸30万の軍勢で高句麗の首都平壌に迫り、高句麗王は謝罪し許されるが。王は軍備を増強し、食糧の備蓄を進め有事に備えた。果たして危機は訪れる。隋が煬帝(ようだい)の代になると、国内の統一も安定し、外征を繰り返すようになる。高句麗に対しても、「北方の異民族と組んで軍を起こす企みがある」と難癖をつけて、「やられる前にやる」とばかりに、100万〜200万の大軍を高句麗に差し向ける。しかし、高句麗兵の士気は高く、三度にわたり隋軍を退けた。
たび重なる大義に乏しい侵略戦争への従軍で隋の兵士の不満は高まり。これをきっかけに隋は滅び、高祖が体制を奪い唐を建国する(618年)。唐は、北方、西域の平定を終えて、宿敵・高句麗の征討に執念を燃やす。一方の高句麗が、冒頭に触れた千里の長城の建設に取り掛かるのがこの頃のことだ。東アジア激動の時代だ。
だが、唐は大国の威信をかけて強硬外交を仕掛ける。高句麗の朝議も、朝貢の復活で和親の動きを探り始める。
これに抵抗したのが、長城の築城監督だった淵蓋蘇文(えんがいそぶん)だ。642年、貴族政治を廃して権力を集中し国防を固めて唐の侵攻に備えることを目論んでクーデターを行い、栄留王を殺害して宰相と将軍の地位に就く。これに反発した唐の太宗は645年から648年にかけて10万の兵を率いて三度の高句麗遠征を行ったが、激戦の末、淵蓋蘇文の指揮により最新兵器で攻めかかる唐軍を打ち破った。
高句麗軍の精強さを物語るエピソードが今でも韓国、北朝鮮で語り継がれている。遼東半島付け根にあった安市城という要塞が数万の唐軍に包囲され攻撃された。城を守る兵はわずか5千。攻城やぐらも動員した攻撃は三ヶ月に及んだが、ゲリラ戦で対抗し、淵蓋蘇文の救援軍が駆けつけるまで城を守り通した。城壁が破壊されても補修し、これを繰り返す士気の高さに唐軍は引き上げざるを得なかった。ソウルでも、平壌でも、戦争博物館のジオラマとして展示され、淵蓋蘇文は、将軍の鏡として讃えられている。
欠かせない地域、世界を俯瞰する視点
一人の英雄を称賛するためにこの原稿を書いたわけではない。世界のどの地域でも、いつの時代でも、突出した国力を持つ国が出現すると、その巨大パワーは軍事力を背景に拡張主義に走り、周辺国。地域を圧迫する。それにどう対処するかは、常に考えながら外交を展開する必要がある。
奇しくも、聖徳太子が隋に「日出る処の天子、書を日の没する処の天子に致す」と自尊心あふれる国書を隋の煬帝に送ったのもこの時代の外交対処術であった。朝貢関係ではなく、対等外交を大国に求める矜持(きょうじ)だ。
また、中大兄皇子(のちの天智天皇)が、権力の集中を目指して豪族の蘇我宗家を滅ぼした(645年)のも、淵蓋蘇文が同様の狙いでクーデターを起こしたのと時期が一致する。ともに東アジアに巨大パワーが出現したことへの対処だった。
歴史を読み解くときに、一人の英雄、一人の賢帝の「お話」として見るのではなく、広く地域、世界を俯瞰し、共通項を見出す姿勢が必要なのだと思う。
イランで今、起きている事態も、ウクライナ戦争も、そうして初めて立体的な像を結ぶだろう。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『三国史記』金富軾著 林英樹訳 三一書房

















