尾張一国を掌握したばかりの織田信長を天下取りの第一人者に押し上げたのは、今川義元を打ち破った桶狭間の合戦だった。
江戸時代以来、勝因は休息中の今川軍を側面から襲った奇襲攻撃にあったとされてきた。
しかし、近年の研究では、信長は正面からの突撃で十倍の敵に挑み、義元の首を取った。無勢で多勢を破った勝因はどこにあるのか。
尾張東部の大高、鳴海の両城を謀略によって奪った義元に対して、信長は五つの砦で二つの城を包囲していた。
上洛の障害である信長を除こうと義元は、その砦を蹴散らすために大軍を率いて駿府(静岡)を発ち西へ向かう。
合流した徳川家康の兵を合わせて、その数4万。
清洲(名古屋)にいた信長は、二つの選択肢の間で迷っていた。籠城して義元の大軍をやり過ごし勝機を待つか、撃って出るか。
戦いの前夜、悩む信長のもとに、砦のふたつが落ちたとの報が届く。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり…」
人生の有限をうたう幸若舞「敦盛」を舞い終えると決然と馬を引かせ、側近5騎と雑兵200のみを従えて出陣した。
熱田神宮に到着するころには、籠城論に傾いていた家臣たちも、信長の決死の覚悟に押されて追いついた。
戦意を確認すると前線の善照寺砦へと早駆けに駆ける。その勢4000。
十倍の兵を従える義元の陣は、数キロ東の桶狭間山にある。
逆上したかのように城から撃って出た信長だが冷静な判断があった。籠城して兵を温存しても、「信長は臆病」と義元に見くびられる。家臣たちも離反するだろう。先はない。
ならば一戦交えて、引けばいい。十倍の敵に勝てると思うほどの思い上がりはない。
兵を率いて、さらに前進し中島砦に移る。敵の手に落ちた二つの砦が背後となる。
敵中に飛び込む無謀を側近たちは諌めたが、信長は、「砦の敵との間は湿地で相手は動けない」と目にした地勢を判断し決意はゆるがない。
軍事用語から転じて経営場面でも陣頭指揮という。有事でもないのに前線に出たがるのは真のリーダーではない。現場の邪魔になるばかり。
ここぞの場面で危険を顧みず現場に入るのが真の陣頭指揮だ。
士気を高めるだけではない。現場にいてこそ、自らの目で迅速に適切な判断が下せる。
対する義元は、前日の砦奪取で慢心していた。「信長もわが大軍に怖じ気づいて出て来られまい」と、日中に宴を張り、自ら謡を三番うたったという。電撃的に動いた敵将自らがすぐそこにいることにも気づかず。
決断すれば敵に知られず迅速に行動する。勝利の鉄則である。