ヒットラーとスターリンの思惑
1939年9月1日、ドイツ軍が電撃的にポーランドに侵攻し、英仏はドイツに宣戦しヨーロッパ全域を巻き込んだ第二次世界大戦に突入する。
ナチスドイツを相手にした戦いでは、フランス、イギリスが主役の西部戦線の戦いばかりが映画や小説でも取り上げられるが、最大の惨禍をもたらしたのは、実は西部戦線が膠着状態に陥った後の第二段階で繰り広げられた東部戦線での独ソ戦だった。とりわけドイツ軍の猛攻を一手に引き受けた形のソ連は、当時1億8800万の人口のうち、1140万人の兵士を失い、このほか民間人の死者が1000万人に上ったという統計もある。人口の1割以上が犠牲となったことになる。ドイツも700万人に及んだ犠牲者のうちの過半数が東部戦線の犠牲者だ。
「ゲルマン民族至上主義」を掲げるヒットラーは、東欧とロシアからスラブ民族を追い出して、広大な土地と農産物、原油を東方に求めドイツの「生存圏」とすることに異常なまでの執着を見せる。かたやスターリンは、レーニン亡き後のソ連共産党の権力闘争を勝ち抜いたものの、その過程で粛清を繰り返し、圧政に揺らぐ社会主義体制を引き締め維持するためにも、国民の目を外に逸らす必要に迫られていた。
束の間の蜜月と奇襲
そのスターリンは、チェコスロバキアに触手を伸ばすことを認めるミュンヘン合意とそれを主導した英国に大きな不満を募らせていた。「英国の狙いは、ナチスの膨張主義の矛先を東に向かわせ、わが国と戦わせてともに疲弊せさることを狙っているのではないか」と疑っていた。
ともに似たような全体主義国家の独裁者でありながら、不倶戴天の敵であるヒットラーとスターリンだったが、大戦初期にはしたたかな外交対応をとる。ドイツ軍がポーランドになだれ込むと、ソ連もポーランドに軍を進めて分割領有する。直前の8月に両国は相互不可侵条約を結び、秘密議定書で東欧の勢力範囲の分割を申し合わせていた。
ヒットラーにしてみれば西部戦線で、フランスでの戦いから撤退した英国首相チャーチルに講和を迫っていたが、チャーチルは徹底抗戦の構えを崩さない。41年6月22日、ヒットラーは、主力軍を東部に集中し不可侵条約を一方的に破棄してモスクワを目指し進撃を始める。
不意をつかれたソ連は国境の軍配置もおろそかで、防衛網を次々と破られた。実は、スターリンには、東京、ロンドンなどに送り込んでいた諜報員から、「ヒットラーはまもなくモスクワ侵攻に踏み切る」との緊急報告が次々と入っていた。だがスターリンは、「ベルリンの出方は私が一番心得ている。ロンドンからの情報は、チャーチルの謀略だ。信じられない」として握りつぶしていたことが、その後明らかにになっている。
わが国でも、情報機関の充実計画が俎上に上っていると聞く。情報は外交の要諦ではあるが、スパイを送り込めばそれでいいというものではない、上がってきた情報の分析能力が重要であり、情報に接したトップが恣意的に判断したのでは意味をなさない。
戦術素人の戦争指導
スターリンの失敗はこれにとどまらない。政治粛清の過程で、軍指揮官の多くが政治犯収容所に送り込まれ、指揮系統が混乱を極めていた。スターリン自らが作戦の細部にまで口を挟むようになっていた。トップは戦略、外交の統括指導に徹すべきで、作戦指揮まで口を出せば、現場は混乱する。
ヒットラーも同様の過ちを犯している。ドイツ軍が優勢に戦いを進めていた東部戦線の状況を一変させたスターリングラードの攻防戦(42年6月―43年2月)。ボルガ川西岸に広がる工業都市での激しい市街戦で、抗戦するソ連軍の最終防衛線を突破できず、現地司令官のパウルス元帥は撤退を進言したがヒットラーはこれを拒否し戦線死守を指示。結局ドイツ軍はソ連軍に包囲されて身動きが取れず、ドイツ・枢軸軍85万人が死亡し、パウルス元帥を含む10万人が捕虜となった。この後、ヒットラーは、「指揮官は戦い方を知らない」と怒り、自ら作戦指揮をとり始めて軍は破綻する。
独裁的トップが現場で指揮をとれば、間違った判断にだれも口を出せなくなる。作戦は命をかけたリアリズム。軍事を学んだ現場のプロに任せるべきなのだ。
(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」大木毅著 岩波新書
「世界の歴史23 第二次世界大戦」上山春平、三宅正樹著 河出文庫
「危機の指導者チャーチル」冨田浩司著 新潮選書





















