本田宗一郎は、「おれのこの手があればどんな機械ででも最高のものはできる」と、古い工作機械で、その湧き出るアイデアと手先の器用さによって次々と斬新なオートバイエンジンを生み出していった。
2サイクルエンジンが常識だったオートバイに新型の4サイクルエンジンを搭載したドリーム号が爆発的に売れ始めた。
さらに庶民の足である自転車に小型エンジンを積んだカブ号も人気商品となった。
同業他社も追随し、激しい販売競争が起きた。「今が考え時だな」とその先を見越していた男が本田の傍らにいた。
本田のモノづくりの姿勢と技術力、そして奔放なアイデアに惚れ込んで財務・営業担当として本田と組んだ専務の藤沢武夫だ。
昭和24年に拠点・浜松から東京への進出を目指していた本田の元に馳せ参じた藤沢は、仲介者に「俺、かねはないけれども、かねはつくるよ。かねのほうは受け持って、ひとつ一緒にやってみたい」と伝えている。
金をつくるという点で藤沢は本田に劣らぬアイデアマンだった。全国にある街の自転車店をホンダの販売店に仕立て上げた。しかも、パンフレットを送りつけて「品質は責任を持つ」と売り込み、先金でオートバイを買い取らせたから財務体質は強固さを増した。
モノづくりに没頭する本田からは、次々と世の先端を行く試作車が持ち込まれていた。「これは売れる。となれば、さらに最新の設備が必要だ」と判断した。
「よし機械を買おう」。決断すれば速かった。
「社長、もっと買えよ。欲しい機械をどんどん入れてくれ」と本田に掛け合った藤沢は、ひとつ注文をつけた。「そのかわり、すぐ動かしてくれよ」
社長の本田を米国に機械の買い付けに向かわせ、ヨーロッパにも人を出した。
速いだけではない、その投資が半端ではない。資本金六千万の会社が、二年間で米国、スイス、ドイツから合わせて15億円の最新工作機械を輸入した。
そして本田は、機械を遊ばせるどころか酷使してアイデア商品を形にしてゆく。
「本田へのこの信頼がなかったら、たとえ経理的に余裕があっても、この大冒険に踏み切れなかった」と、藤沢は振り返っている。
いつ、どれだけの規模で設備投資するか、しないか。その判断はどの企業でも苦心のたねだ。
正確な状況分析はもちろんのこと、決断、行動の速さと大胆さが求められる。
「六日の菖蒲、十日の菊」では、幸運の女神の前髪をつかむことはできないのだ。
※参考文献
『経営に終わりはない』藤沢武夫著 文春文庫
『松明は自分の手で』藤沢武夫著 PHP研究所
『本田宗一郎 夢を力に』日経ビジネス人文庫
※当連載のご感想・ご意見はこちらへ↓