南征をあせる諸葛亮を諫める
中国三国志の時代。長江上流部の蜀の国を拠点に天下取りを狙う丞相(首相)の諸葛亮(しょかつ・りょう=あざ名は孔明)は、225年春、軍勢を率いて領地南部の南中地域(雲南・貴州)に遠征する。蜀を建国した先帝の劉備(りゅう・び)が世を去って二年、南中地域では各地の豪族が反乱を起こし、不穏な空気が漂っていた。劉備の遺言である「北伐・漢王朝の再興」を急がねばならない諸葛亮は焦っていた。反乱軍を一刻も早く打ち破り、背後を安定させなければ北伐軍を繰り出せない。
南へ向かう丞相は、途中まで見送りに出た腹心の参軍(幕僚)の馬謖(ば・しょく)に問う。
「お前とは、何年もの間、軍略についてともに練ってここまできたが、もう一度、南方作戦について策を授けて欲しい」
馬謖。のちに宿敵である魏の軍と激突する街亭の戦いで、一つの作戦ミスから諸葛亮に処刑される(〈泣いて馬謖を斬る〉の故事)が、このころの諸葛亮は馬謖に全幅の信頼を置き、夜を徹して語り明かす仲だった。馬謖は答える。
「辺境の南中地域は長い間、蜀に服従してきませんでした。軍事的に今これを打ち破ったとしても、将来には必ず反旗をひるがえすでしょう。これからわが国が北伐に全力を注ぐことになり国内に軍事的空白が生じれば、反逆も早いでしょう。だからといって残党をことごとく滅ぼすならば、逆効果です」
「では、何とする?」と宰相は問い返す。馬謖が授けた策はこうだ。
「そもそも用兵の道は、心を攻めることを上策とし、城を攻めることを下策とします。丞相殿は、武器による戦いよりも、敵の心を屈服させる戦いをなさいませ」
敵将を七回捕らえ七回赦す
馬謖と別れ前線に赴いた諸葛亮は、反乱軍の首領である孟獲(もう・かく)という男が現地民の厚い信望を集めていることを知り、彼に懸賞金をかけて生け捕りにする。そして彼に陣立てを見せて、「どうだ、わかっただろう。お前たちには勝ち目はない」と言い含めて釈放した。
しかし孟獲はまた背く。捕らえては釈放し、放っては捕らえるを繰り返すこと七度。七度目も赦そうとすると、孟獲は諸葛亮の前を立ち去ろうとしなかった。そして言った。
「あなたは天の威光をお持ちだ。南の者たちは二度と背かないでしょう」
信頼を勝ち取ったのである。平定作戦はこの年の秋までにほとんど軍事的犠牲を払うことなく終わった。孟獲の言葉通り、南の人民たちは、諸葛亮が死ぬまで蜀に反乱を起こすことはなかった。平定された雲南・貴州の地域は蜀の北伐に必須の軍糧の供給基地となった。また、この地域の平和安定を通じて蜀は海への交易路を開き、多くの富を手に入れることになる。
軍事に限らず、あらゆる事業について言えることだが、〈力攻め〉にはコストがかかる上に恨みを遺す。対して、自らが相手に対して〈信頼〉を実践することで、より大きな〈心服〉による果実を得ることができる。〈信頼〉の実践はコストがかからない。
七度捕らえて七度赦す=〈七縦七禽〉(しちしょうしちきん)の故事である。
信頼のバランスシート
諸葛亮は、馬謖から〈心を攻めること=信頼〉の重要性に気づかされ、南中平定に短期間で成功したが、同地域の占領政策においては、彼独自の工夫を見せる。占領地での円滑な行政遂行のために、各地域の頭領たちをそのまま任用し、軍隊を引き上げたのである。
これには、側近の中から不満も噴出した。ある側近が、「平定したとはいえ、いつ背くかもしれない占領地を彼らに任せては不安定になります」と丞相を諌めた。すると諸葛亮は自らの決断の意図をこう説明した。
「現地にとってよそ者の役人をその地に置けば、それを守るための兵隊を留める必要がある。その食糧はちょっとやそっとでは済まないだろう」。これが第一の理由だ。
「かといって、守護兵を留めなければ、必ずいざこざが起きる。現地の住民たちは今回の戦争で父や兄弟を失ったばかりなのだから、よそ者の役人たちに強く反発するのは必定のこと」
さらに言う。「彼らは役人を追い出したり殺害したりした反逆の罪を自覚している。派遣されてくる役人がその罪を問うことを恐れているから、決して信用しないだろう」。
以上三つの理由を挙げて、「だから、わしは、現地の頭領を任用することにした。それによって兵隊の駐留も要らず、兵の食糧を輸送する必要もなくなる。現地人の気持ちにそった現地人による戦後処理で緩やかな規律が保たれることを願ってのことだ」と説得した。
まさに〈信頼〉にもとづく低コストの占領政策である。この信頼が、長く、被占領地の安定をもたらした。見事なバランスシートと言わざるを得ない。
この例に見るように、人と人との信頼関係は、対立する組織との間の対外関係(外交など)で大きな果実をもたらすが、みなさんがより大きな関心を持たれるのは組織内での信頼関係だろう。リーダーと部下の信頼関係、たとえば、部下の失敗はどこまで許せるかは、リーダーの人間力をはかる大きな尺度となる。
次回は、それを見てみよう。
※新シリーズでは、リーダーにとっての必須の条件である「人の心を取り込む術」について古今東西の偉人たちの実践例から学ぶことにする。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『三國志 四 蜀書』陳寿著 裴松之注 中華書局
『正史三国志5 蜀書』 井波律子訳 ちくま学芸文庫
『読切り三国志』井波律子著 ちくま文庫