日清戦争の講和に向けて、あえて露仏独という列強三国の干渉を呼び込んだ李鴻章の策は、中国の近代化を遅らせ、やがてその弊害が全身にまわる、文字通り毒薬だった。
日清講和条約の批准、締結を機に李鴻章は北洋大臣・直隷総督を解任される。しかし、あくまで西欧化を拒み、攘夷に拘る“清議”という儒教論理ゲームにふける宮廷、官界は激動する世界を前になす術もなく、清国の外交は李が担わざるを得なかった。
条約締結後、彼はロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式参席のため、ペテルブルグに向かう。そして、ロシアとの間で同盟密約を結ぶ。
日本の大陸進出を恐れる光緒帝の命でもあったが、両国は日本を仮想敵国として朝鮮半島を含めて攻守同盟を結ぶ。したたかなロシアは、日本の影響を排除した満州(中国東北三省)の利権を要求し、シベリア鉄道の三省通過を認めさせた。
この密約が極東でのロシアの影響力の膨張を招き、日露戦争の引き金となる。そして中国の近代化はさらに遅れ、半世紀にわたり泥沼でのあがきを続けることとなったのは、歴史に見る通りである。
その足で李鴻章は欧米を歴訪する。各国のパワーバランスを図りながら、李鴻章が終生夢見た祖国の近代化の支援を得るための行脚だったが、成果はなかった。
ドイツのハンブルグでは、引退したかつての鉄血宰相・ビスマルクと会う。李鴻章74歳、ビスマルク81歳。苦心惨憺の末、近代化を成功させたビスマルクは「近代化のカギは軍事の強化にある」と語り、李鴻章はこう嘆いた。
「人の数なら中国も十分にある。指導者と軍制の欠如が問題だ。私は三十年にわたり、貴国と同じになれるように、自国の人々に警告してきた。けれども依然として弱体なのはお恥ずかしい限りだ」
近代化に先んじた日本はどうか。薩長主導の明治政府で政治から遠ざけられながら「日清戦うべからず」と強く主張し李鴻章に共感していた旧幕閣の勝海舟は、日清戦争後、枢密院顧問の立場で、こう警告している。
「日本人もあまり戦争に勝ったなどと威張って居ると、後で大変は目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝っても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ」
時代を読んだ賢者の予言に聞く耳を持たなかった日本もまた、ここから泥沼の中であえぐ半世紀を経験するのである。