悠久の中国の歴史は、リーダーにとって教訓の宝庫であることに異論はないだろう。しばらく中国史をたどってみる。
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赤壁の戦い。魏・呉・蜀が覇を競い合う三国時代の入り口で、呉の孫権と、のちに蜀を建国する劉備の連合軍が長江沿い赤壁の地で魏の曹操を迎え撃って破り、天下統一にひた走る曹操に待ったをかけた一戦である。
西暦でいうと208年11月。中国北部を手中にした曹操は、大軍を率いて南進し、荊州を落とし呉との境である長江に迫った。そして曹操は呉の若き三代目、孫権に手紙を送る。
「これより水軍80万を率いてそちらへうかがう。一緒に狩りをしよう」。無駄に戦わず矛をおさめて降伏しろ、という脅しである。
迎え撃つのは呉軍が3万、劉備軍が2万である。浮足立つ呉の幕僚たち。孫権は群臣たちを集めて評議を開いたが、口々に「多勢に無勢。勝ち目はない。ここで降伏を断ればさらに事態はこじれる」と降伏論を唱えるばかり。
そこへ地方に使いに出ていた猛将の周瑜(しゅうゆ)が戻り、群臣たちを一喝する。
「曹操は漢の帝室を支える丞相(じょうしょう)をかたっているが、実際は帝位を盗もうとする賊だ。呉は、その賊を除こうとしており、精兵も十分にある」。まずは「勝つ道理がある」と名分論で群臣を黙らせたあとで、勝算を語る。
「まず魏は北方に反乱勢力を抱え背後が不安定だ。次に、南船北馬というではないか。彼らが得意の馬を船に代えて戦うには力はない。さらに、今は冬だ。主兵力を支える馬に食わせる飼い葉がない。これで三つだ」。指折りつつ曹操軍の弱点を数え上げる。
そして最後につけ加えた。
「魏の兵士たちは遠く北方から湿潤なここ南方まで駆り立てられてきた。この風土に馴染めず、必ず病気に悩まされている。曹操はこの四つの不利を押して戦おうとしている。いまこそ曹操めを捕らえる時だ」
「私に三万の兵を預けられれば必ず勝ってみせる」。孫権は、周瑜の献策を聞き入れ出陣を命じた。そして意気上がる連合軍は数倍の敵を打ち破り北へ追いやったのである。
〈それ未だ戦わざるに廟算して勝つ者は、算を得ること多ければなり〉(戦う前に敵と味方を比較計量して得られた勝算が相手より多いものが勝つ)
「孫子」が説く、普遍の真理である。
世の三国志ファンは、蜀と呉を連合させた蜀の宰相・諸葛亮(孔明)の外交采配、降伏と見せかけて、火をつけた船を魏の船団に放った「火攻の計」に胸おどらせる。だがそれは、講談調の物語世界の面白さにすぎない。