奇妙な休戦状態でモスクワの滞在が長引くにつれ、ナポレオンの脳裏には言い知れぬ不安がもたげてきた。
60日で作戦は終わると当初考えた期限はすでに過ぎている。モスクワでの越冬を決意したとはいえ、さらに半年も全欧州を支配する皇帝がパリを留守にすれば、政治情況もどう動くかわからない。
将軍たちを集め、膠着状態を打破するため首都ペテルブルグへの進軍を提案したが、こぞって反対される。
560キロ北にある首都に向けて軍を動かせば、モスクワ南郊に陣取るロシア軍に背後をつかれるのは自明の理だ。
ロシア軍総司令官のクツーゾフの布陣はその意味で理にかなっていた。
考えられる選択肢は、冬の来る前に国境近くまで軍をひき、次の春の再攻撃を期すしかない。将軍としてならその決断も可能だが、不敗の皇帝・ナポレオンにはできぬ相談であった。
モスクワ放棄、つまり撤退は、欧州各国から「ロシアでフランス敗北」とみなされ、政治生命に関わる。そう考えると躊躇せざるを得ない。
「どうすべきか」。ある日、ナポレオンは側近の馬事総監コレンクールの意見を求めた。
かつて、「ロシア侵攻は無謀」と諫言したことのある冷静なこの男、「陛下は重大な危機に瀕しています」と、またもや英雄を諌めた。
「これはモスクワで陛下をあやしておこうというロシア軍の策略です。しかも越冬装備もない。どう冬を越せますか」。口にしないまでもだれもが考えていた「撤退」の勧告でもあった。
「お前はロシアの気候のことを大げさに言い過ぎる」と一笑に付したものの、皇帝の意思は撤退に傾いてゆく。
だが面子もあった。直ちに西に向かわず、南にいるロシア軍を叩いて、勝利を手土産に西に転じることにした。
「勝てる」と自信を持って立ち上げた事業も、必ず成功するとは限らない。勝算なしと見極めれば、面子にこだわらず失敗を認め、最短距離で速やかに撤収、撤退するのがリーダーに求められる行動原理だ。勝利にこだわるナポレオンは原理を踏み外した。
10月19日、そぞろ寒くなってきたモスクワを、南のカルーガに向けて発つことになった。ナポレオンは全軍を前に叫んだ。
「(敵の待つ)カルーガに向けて進軍!わが行く手を阻むものに災いあれ!」
「進軍」と偽った優柔不断の「撤退行」は、やがて自らに災いをもたらすことになる。(この項、次回に続く)