天正十年(1582)六月二日、明智光秀は兵を率いて京都・本能寺に主君・織田信長を襲撃する。世にいう「本能寺の変」である。
天下統一へと着々と権力固めに動いていた信長は混乱の中で自決し、戦国の世は再び混沌とした状況に戻る。
光秀は13日後、中国地方の対毛利戦線から強行軍でとって返した(中国大返し)豊臣秀吉に山崎での合戦で敗れ、権力簒奪の野望はうたかたの夢に終わった。
このことから後世、光秀の行動は私憤にかられた無謀であって、滅ぶべくして滅んだと評価された。光秀は愚将の典型として貶(おとし)められている。
その動機について、信長との個人的な確執を挙げる説が有力だ。
二週間前に安土城で信長の叱責を受けて足蹴にされた。近江、丹波からの国替えの動きに、たまらず先手を打った云々。秀吉、徳川家康の時代に書かれた種々の書物にはそう書かれている。
直接の動機にはいまだ謎が多く横たわるが、少なくとも、その後の勝者の側の歴史が敗者の光秀を貶める記述に終始するのにだまされるわけにはいかない。
足軽でもあるまいに、信長を補佐する立場の武将として光秀は、後先も考えず成算もなく無計画に天下人を葬り去るほど愚かではない。であればこそ信長に重用されたのだ。
平和の世ではない。その後、秀吉そして家康が知略と謀略で天下を狙ったのと同様に、光秀も本能寺襲撃で、天下が取れるとの設計図をもっていたはずである。
知略、謀略を非難するほど秀吉、家康も清廉ではない。
考えてみればわかるはずである。投資案件であれ、競合社との厳しいシェア争いであれ、勝算もなく動く指導者はいるはずもない。
問題は、綿密に組み立てたはずのクーデター計画が、信長殺害という第一段階に成功しながら、その後なぜ短時日で挫折したのかにある。
秀吉、家康が変の後にとった行動との対比でみると、ことの成否のなぞが解ける。
前月、光秀は、中国・高松城の水攻めに難渋する秀吉の応援に中国へ下る命令を信長から受け、丹波亀山の居城に戻り兵を整えた。
そして事変の一週間前の五月二十四日、京都西郊の愛宕山にのぼり、戦勝祈願の連歌の会に臨んだ。
口切りの発句を光秀はこう詠んだ。
「時は今、あめの下なる五月かな」
さて、その発句に秘められた真意とは。光秀はこのとき、明確に天下取りに動く決意を固めていた。勝算をもって。 (この項、次回に続く)