日清講和条約に列強が異を唱えた「三国干渉」に踏み込む前に、時間を遡り、リアリスト李鴻章の政治家としての原点を見ておく。
安徽省出身の李鴻章は、1847年、24歳で科挙の試験を受けて進士となった。エリート官僚の道が約束されていたが、折から重税にあえぐ農民たちが、宗教集団を根拠に国を揺るがす反乱を起こす。太平天国の乱である。
故郷の安徽省で鎮圧軍の創設を命じられた李は、淮軍(わいぐん)を率いて上海地域の防衛を任される。
何とか3千の兵を集めたものの、旧態依然とした装備に愕然とする。槍に鉾、火縄銃。「これで戦えというのか」。装備の近代化が急務だ。とはいえ国から潤沢な資金が来るわけではない。遠く離れた北京の宮廷にとってはよそ事で、資金は地元でなんとかしろと支援はない。
李は、海外との交易都市として発展する上海の資金に目をつけた。地元財閥を巻き込んで、国内関税の管理権を手に入れる。西欧の武器商人から最新の武器を調達する。
しかし、官界からは不評であった。アヘン戦争、アロー号事件と、列強は中国侵食の動きを活発化させているにも関わらず、宮廷周辺は、古い儒教倫理を振り回して、空理空論の論争に明け暮れ、「洋務」(西洋の知識、文物の移入)に消極的であった。それどころか、攘夷論を振りかざして妨害さえした。
思想的な反発から政治的抹殺を招かぬように慎重に圧力を跳ね返し、李は兵器工場を作り、武器を自前で調達できるようにした。近代化された兵備を背景に内乱は鎮圧された。
「このままでは中国は、滅びてしまう」。危機感は募った。列強からは、沿岸を遊弋(ゆうよく)する砲艦の武力を見せつけながら通商特権要求の無理難題が相次いでいた。
宮廷は、外務を扱う総理衙門(がもん)を設けてことに当たらせたが、右往左往するばかりで当事者能力を欠いた。そのころには、李は、上海人脈と豊富な資金を背景に大きな政治力を手に入れ、首都防衛の要衝である北京外港の天津駐在の直隷総督となっていた。
各国は、総理衙門を無視して、西洋事情に明るい李鴻章との交渉を望み、李は、難題をこなしていった。
天津から北の海洋防衛を担う北洋大臣に登りつめた李は、海軍の近代化、艦隊整備に着手する。
国家防衛の理想を追う李鴻章の頭の中には、隣国・日本の姿がちらついて離れなかった。
近代化の手本として、また、すぐそこにある軍事的脅威としてである。 (次回に続く)