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逆転の発想(50) 死中に活を求める(島津義弘)

指導者たる者かくあるべし

 敵中突破の決断
 豊臣秀吉亡き後の天下の行方を決めた関ヶ原の合戦で、西軍について敗れた島津勢の総大将である島津義弘は、退却にあたって少数の兵を率いて敵中に躍り込んで退路を開いた。この通常の発想とは逆転した退却戦が、「島津の退(の)き口」である。
 
 この話を最初に知ったのは、筆者の学生時代、親しくしていた鹿児島出身の同級生の話だった。彼によれば、中学、高校時代に徹夜で桜島を歩いて一周する恒例行事「徒歩(かち)歩き」を経験したという。もちろん島津義弘の故事をしのんでの行事なのだが、三百数十年前のことを昨日の出来事のように熱弁を振るう彼の興奮ぶりに、“薩摩っぽ”の気概の原点を見る思いがしたものだ。何十年ぶりだろう、彼に確認の電話を入れた。
 
 関ヶ原前夜、秀吉後の政界の筆頭大老である徳川家康が大軍を率い会津攻めに出て京、大坂を留守にした。大坂に詰めていた義弘は、ただならぬ予感がして、二つ年上で島津家当主の義久に薩摩から兵を上洛させるように何度も要請した。しかし、「中央のごたごたから距離を置くのが得策」とする義久は動かず兵を送らない。果たして石田三成が挙兵する。「手勢のないままでは政治的にも動きが取れない」と義弘は矢の催促を国元に送ったがなしのつぶてだった。
 
 合戦当日の9月15日、三成方についた義弘は関ヶ原の前線に陣取っていた。なんとか呼び寄せた手勢は千人足らず、動けない。徳川方の猛攻をしのぐので精一杯だ。早朝からの戦いは昼前に勝敗は決した。薩摩勢は200−300人となっていた。義弘は小高い丘に登って、西の方を臨む。
 
 本陣の三成勢をはじめ西軍の将兵は、散り散りとなって伊吹山に向けて退却を始めている。薩摩勢は敵中に取り残された。
 
 「いかがなさいます」と問う側近に義弘はいう。「敵は西と東、どちらに勢いがある?」。「正面、東です」。「ならば、猛勢の東に退路を開く、行くぞ」。
 
 主戦論者の戦後処理
 正面には猛将、福島正則の軍勢がほぼ無傷でいる。その只中に薩摩の兵たちは密集隊形で突進する。数は少ないとはいえ、練度からいうと島津の兵は西軍の最強軍団だった。福島勢がひるんで下がる。そのすきに猛然と敵を斬り伏せ、撃ち倒して逃げる。
 
 義弘は幼いころから父に教えられた。
 
 「将たるもの、たとえ敗北しても、後の締めくくりが肝要である」。
 
 殿(しんがり)の兵たちが追撃を食い止めて将を先へと逃す。ようやくのことで戦場を逃れたときには十数人が従うだけだった。
 
 目的は薩摩へ逃げ帰るだけではない。義弘にはやるべきことがある。大坂で西軍の人質に取られている側室や侍女たちを救出しなければならない。伊勢、近江、大和を経て生駒を越えて、和泉の堺港まで数日で逃げ延びた後、大坂へ密使を出して人質を解放し、合流して船で国元へ帰った。
 
 関ヶ原で勝利した徳川家康の西軍諸大名への戦後処理は厳しかった。西中国に覇を唱えて西軍総大将に担がれた毛利輝元は、百十二万石から、周防、長門に所領を押し込められた。薩摩への処断も厳しいものが予想された。家康は島津家当主の義久が上洛し詫びるように圧力をかけてきた。義久の切腹、所領没収もあり得る状況だった。
 
 これに義久がキレる。「徳川の兵と一線を交えて果てても本望だ」と周辺に漏らす。
 
 人脈が家を救う
 肝心の戦さで決断せず観望論を決め込んだ人間ほど、戦後処理ではしくじるものだ。責任を転嫁し自暴自棄になる。毛利もそうだし、島津もそうだった。両家が関ヶ原に全力で戦っていれば、天下の行方もどうなったかわからない。
 
 この危機を弟の義弘が救った。義弘はまず、徳川方についた加藤清正が拠点とする肥後との国境兵力を整える。その上で講和の道を探る。
 
 島津家には前例があった。秀吉による天下統一の直前、島津は九州統一の一歩手前だった。秀吉は、兵を送り、薩摩、大隈への退去を求める。この時は、義久が主戦論を主張し、義弘らが「まずはお家大事」と説得していた。
 
 今回の家康の怒りはより強い。しかし、家康もいつまでも戦争を続けるほどの余裕はない。まずは、西軍についた柳川の猛将・立花宗茂を許す。使えるものは使うという度量を見せた。その立花宗茂が、徳川方に島津赦免を訴えた。
 
 宗茂と義弘は、朝鮮戦役で苦楽をともにした中である。宗茂が、やはり朝鮮戦役での僚友であり徳川方の重鎮である清正と黒田長政を説得して、島津との間の仲立ちとなった。島津の恭順の意を確かめて家康にその意を伝える。島津が「わび」を入れることでお家取り潰しの大事は避けられた。
 
 久しぶりに電話口で友人の朗らかな声を聞いた。
 
 「そうだよ。“島津の退き口”の逸話は単なる島津義弘の勇ましさの話ではないのさ」。「敗北後の締めくくりの知恵が大事」。二人の意見が一致した。再会を約して電話を切った。
 
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
 
 ※参考文献
『島津義弘の賭け』山本博文著 中公文庫
『島津義弘』徳永真一郎著 学陽書房人物文庫

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