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- 逆転の発想(51) 不利なときこそ知恵の出番(真田幸村)
小を以って大に対するには
前回取り上げた「島津の退(の)き口」でもそうだが、圧倒的不利な状況で敵と戦わざるを得ないときはある。そこで守りを固めても大敗北する。ましてや敵に背を見せては討死にを待つばかり。であれば、一点に集中して敵を攻撃することで勝機は生まれる。
1614年10月、徳川家康との一戦を覚悟した豊臣秀頼の元へ駆けつけた浪人たちの軍議が行われた。秀頼最側近の大野治長ら「籠城論」が優勢な中で、関ヶ原の合戦で西軍についたことで幽閉されていた九度山から馳せ参じた真田幸村は城から打って出て、大坂へ向かっている家康軍の機先を制するべきだと主戦論を展開する。
関ヶ原合戦の後、天下の形勢は徳川が掌握している。
「いかに大坂城が天下の堅城とはいえ、籠城戦が有効なのは後詰め(救援軍)があってのこと。このまま待っても後詰めはこない。ここは一気に打って出て、家康軍の足を止めることが大事。小が大に対する知恵がなければなりません」。
幸村が披露した作戦は具体的だった。兵を京、近江、大和へ繰り出して、街道の要略地である宇治橋と瀬田橋を落とす。孤立した伏見城を落として豊臣方の健在なことを天下に示せば、様子見をしている豊臣恩顧の将たちが各地で立ち上がるというものだった。
父昌幸の遺言
幸村が示した軍略は、三年前に幽閉先の九度山で無念の死を遂げた父・真田昌幸が遺言として授けたものだ。昌幸は、信州上田城で多勢に無勢の不利な情勢で、圧倒的な徳川軍を城内に誘い込み二度に渡って勝利している。家康が最も恐れた知略家だ。
しかし、軍議は幸村の練りに練った主戦論を退けた。籠城戦を強いられることになった幸村だが、攻めの姿勢は捨てなかった。主戦場となるであろう外堀の南側に真田丸という馬出し曲輪(攻撃的砦)を拠点に徳川大軍勢を挑発しては兵を引き、これを繰り返して敵を刺激し、混乱のうちに策もないまま突撃殺到する敵兵を次々と撃ち倒す(大坂冬の陣)。
真田丸攻略は無理と見た家康との間で講和にこぎつけた。
家康本陣に突撃する幸村
半年後、徳川対豊臣の最期の決戦が再び大坂を舞台に起きる(大坂夏の陣)。冬の陣の講和条件で城の外堀を埋められた豊臣軍は追い詰められていたが、幸村、後藤又兵衛らは果敢に城を打って出て五角の戦いを繰り広げた。
決戦の場は天王寺近くの茶臼山の攻防となる。高みから南の方を見やった幸村は勝機を見つけた。苦戦に業を煮やした家康と秀忠の本陣が前線近くに押しあがってきている。
「しめた、家康の首をとるぞ」。本陣の前に陣取る越前軍一万三千を前に、赤備えの真田隊数百は一丸となって突撃を開始した。多勢をものともせず押しまくる。前が開けた。本陣の旗本たちと激闘となる。秀忠は逃げ出そうとするのを側近に押しとどめられる。家康は自決を覚悟した。桶狭間の今川義元の本陣さながらに大混乱となる。しかし真田の兵ももはや数騎、あと槍一本の距離で幸村はうち果てた。いま一歩の距離が歴史を分けた。
しゃにむに前へ前へと突き進んだ幸村。実は、冬の陣の後、家康はてこずった敵将・幸村に十万石の知行を約束して寝返りを持ちかけている。しかし幸村は断った。では幸村を突き動かしていたものは何であったのかが気になる。秀頼への忠誠?ではない。家康への復讐?でもなかろう。
冬の陣を前に父昌幸が授けた遺言にカギがある。
「この軍略が功を奏するには条件が一つある。わしがその時まで生きておればじゃ。実績のない若いお前の建言などだれも聞き入れないだろう」
予言どおり、献策は退けられた。〈ならば、自分の知恵で家康を打ち破って見せる〉。知略家の父と、それを越えようとした息子。ともに小数で多勢に挑む知恵を今に伝えていることは間違いない。
不利ならばこそ、集中して前に向かえ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『真田三代』平山優著 PHP新書
『日本の歴史15 織豊政権と江戸幕府』池上裕子著 講談社学術文庫
『名将言行録』岡谷繁実著 北小路健、中沢惠子訳 講談社学術文庫