「おっかさん、そうでしょ」
小学校卒の学歴で総理大臣にまで登りつめ「今太閤」と呼ばれた田中角栄は、金権批判にさらされ失脚した。その悪のイメージが強すぎるのだが、彼の政治力を支えたのは金の力だけではない。類まれな人心収攬術にあった。とりわけ彼のスピーチ力は、人の心をとらえて放さないものがある。筆者は新聞社の新潟支局時代にそれを目の当たりにした。
1984年、春の異動で新潟県政担当として支局に赴任したばかりの筆者は、県選出で田中派の参議院議員Yの政治資金パーティに田中がやってくるというので会場のホテルへ出かけた。
最後に登壇した田中は、詰めかけた約二千人の聴衆をぐるりと眺めわたした後、拍手が鳴り止むのを待って切り出した。
「私が、評判の悪い田中角栄です」。このころ、田中は総理を退いた後も自民党最大派閥の田中派を率い「闇将軍」として政局を左右していた。それを逆手にとった、つかみのユーモアに会場はどっと沸き、聴衆は引き込まれてゆく。
「人は新潟のことを裏日本、裏日本とまるで裏社会のように馬鹿にしているが、決して裏なんかじゃない。そうでしょ、皆さん」。再び田中の視線は広い会場をグルリと舐め回す。テーマは、「日本海時代の新潟と日本」だった。
「そりゃあ、一年の半分は雪に閉じ込められるさ。その中でみんな苦労して美味しいコシヒカリを作って暮らしてきた。雪は豊富な水になる。緑は豊かで空気もきれいだ。そのどこが裏なんだ。おっかさん、そうでしょ」。数列めにいた婦人を指さして独特のダミ声で同意を求めると、婦人は自分が名指しされたことに上気して、うなづく。これをしおに澱みない演説はスピードアップしてゆく。
群衆の中の個に話しかける
「東京は表日本だと威張ってるがだ、太平洋の向こうのアメリカばっかり見てるから錯覚しているんだ。明治19年の統計を見ると新潟県の人口は163万人で全国一だった。同じ年の東京府の人口は120万人しかいない。新潟の方がずっと多かった。日本の歴史を見れば、日本海を通じて国内各地、大陸と繋がっていた日本海側が表で、太平洋側が裏だった。そんなこともわからずに、表日本だ、裏日本だなどという議論は意味がない」。ここで声を張り上げる。
田中得意の数字をあげての具体的な話は説得力があるが、驚かされたのは彼の演説作法、視線の送り方だ。終始、右を見て、左を見て、手前の席を見下ろし、奥遠くを見やる。しかも、視線を振るたびに、視線の先にいる個人の目を数秒見つめる。時折、「そうでしょ」と凝視した相手に同意を求める。大会場にいながら、だれもが自分一人に話しかけられている気分になる。
記者席にいた筆者も二度ほど凝視され、広い会場で初対面なのに、自分が特別視されているような不思議な感覚に襲われた。群衆の中にいながら、だれもが個人として総理経験者と一対一で向き合っていると思わせる魔術なのだ。
20分の演説は終盤に入る。「その〈表〉を自負する東京がだ、いまや人がひしめき合って身動きが取れない。空気は汚れて、水も不足していて、新潟から雪解け水を送ってやらなきゃならんようになってきた」(当時、信濃川の水を堰き止めて首都圏に送る構想が浮上していた)
「上越新幹線も、関越自動車道も開通して、新潟と東京は日帰り圏内になった。私も努力した結果だ。皆さん、この百年は太平洋側の百年だった。しかし、これからの百年は日本海側の百年になる。新潟の役割もますます重くなる。どうか、ここにいるY君を皆さんで支えてもらいたい」
雪の中の辻立ち
「今日の話はよかったな」と口々に興奮気味で話しながら会場を去る聴衆の「よかった」は、話の中身以上に、「角さんと直接に話せてよかった」という意味なのだろうと実感した。魔法の話術は人を虜にする。
幼少時から吃音に悩まされたという田中を演説の名手にしたのは、1946年4月におこなわれた戦後最初の総選挙に徒手空拳で立候補して、雪の中、集落を回りリンゴ箱に立って行った辻立ち演説で鍛えられたものだという。無名の若者の演説に聴衆を振り向かせる工夫の積み重ねが、魔法の話術を生んだ。
初立候補時の立会演説会で田中は、「若き血の叫び」と題してこう訴えている。
「皆さん、私は新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩します。そうすれば日本海の冬の季節風は太平洋側に抜けて越後に雪は降らないッ。みなが、大雪に苦しむことはなくなるのであります」
だれもがこの大風呂敷を笑い、田中は落選した。しかし、その大風呂敷は、雪国で暮らすだれもが見る夢だった。そして田中は、この非凡な発想に基づく公約を着実に結実させて夢を現実に変える実行力を持っていた。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『田中角栄 頂点をきわめた男の物語』早坂茂三著 P H P文庫