憎まれる方が安全
君主(リーダー)たるもの、愛されることと恐れられることのどちらが良いか、とマキアヴェッリは問う。たいていのリーダーなら「どちらも必要だね」と考えるところだ。どちらか一方を選べと言われるなら、「愛されること」と答えるに違いない。それが、人の美徳規準にかなうからである。
だが、マキアヴェッリは、組織維持のためには、〈愛されるよりも恐れられる方がはるかに安全である〉と説く。それは彼が持つ独特のシニカルな人間分析に基づいている。「愛より恐怖による統治」を薦める根拠について、まず「人間とは、恩知らずで気が変わり易く、偽善的で自らを偽り、臆病で貪欲」であることを挙げている。たしかに君主が人民に恩恵を施している限り彼らは君主に従い、戦いともなれば、生命、財産、子供まで提供する。〈しかし、事態が切迫すると彼らは裏切る。従って(部下愛とその見返りである)彼らの忠誠心に頼る君主は、ほかの準備を怠り滅亡する〉。なぜなら、〈人間は恐れている者よりも愛している者を害するのに躊躇しない〉からだ。
絶望的な人間観だが、もちろん日常的な道徳心の問題ではない。組織と忠誠心に関して一面の真実を突いている。人は、自身の保全のために行動する。危機において身の安全のためには、恐れている相手を裏切ることに対する報復の危険より、心優しい愛する相手を裏切ることの方を選ぶだろう。
ハンニバルの組織統治
マキアヴェッリは、恐れられるリーダーの例として勇将ハンニバルの例を引いている。カルタゴの将軍ハンニバルは、紀元前3世紀に宿敵ローマを討つため、象と諸民族からなる大軍を率いてアフリカ北岸を出発し、イスパニア(スペイン)、ガリア(フランス)を経てアルプスを越え、古代ローマ本土(イタリア)に攻め込み、無敵のローマ軍と対戦した。
ハンニバルの戦いぶりは、容赦なく敵を包囲殲滅する残酷ぶりだった。のみならず、自軍内にも鉄の規律を敷き、団結を揺るがすものを厳しく処罰したが、連戦連勝の戦いぶりは、味方の兵士たちの尊敬さえ勝ち取って、自軍が順境にある時も、逆境にある時も一度として兵士間でも、ハンニバルに対しても内紛は生じなかった。
これに対して最終的にザマの戦いでハンニバルを打ち破ったローマのスキピオは、イスパニアにおいて自ら率いる軍の反乱を経験した。その原因について、マキアヴェッリは、〈彼はあまりに慈悲深く、兵士をあまりに自由に放置しておいたため、軍律さえも守られなくなったからだ〉と総括している。
恐れられるリーダーの冷酷さの余徳
〈人間というものは、「恐い」と信じた相手から恩恵を受けると、恩恵を与えてくれた人に、より一層の恩義を感じるものだ〉
たとえば、普段から愛情深い上司から、やさしく接してもらい「今回の君の仕事はよかったよ」と褒められたとしよう。うれしさもそこそこで、「だれ彼なく、そんなお世辞を振りまいているんだろう」と印象は薄い。ところが、普段から冷酷で、ガミガミと叱ってばかりの嫌な上司が、「あれはよかったよ、ありがとう」と感謝の一言をかけてくれたらどうだろう。褒められた部下は、強く印象に残り、一層の精勤に励むに違いない。恐れられるリーダーシップの余徳である。
いつもニコニコのリーダーの振る舞いは、組織の潤滑油どころか、部下になめられることにも繋がりかねない。
さてあなたは、非情のリーダーに徹することができるだろうか。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『君主論』ニッコロ・マキアヴェッリ著 佐々木毅全訳注 講談社学術文庫
『マキアヴェッリ語録』塩野七生著 新潮文庫