上方と江戸
歌舞伎の家柄というのは、親から子へと当然のごとく引き継がれていくように見えるが、どうやらそれは昭和以降、とくに戦後の歌舞伎界を見ているからで、名跡の家系図をつぶさに見ると、早々期においてはそうでもなかったようだ。なんとか「家の芸」を継承していくためには、近縁者、他の名跡から養子を迎えて伝統を継ぐというのがかえって当たり前のように行われている。
その血筋の濃淡も東西で違いがあるようだ。江戸歌舞伎では実子への名跡の継承意識が強いようだが、上方歌舞伎の家では、明治以降も血統にはあまりこだわらないように見える。上方では江戸期に活躍した役者の名跡が実子継承で今も残っているのは、片岡仁左衛門、中村鴈治郎、坂田藤十郎ぐらいのもの。「家の芸」を継承させるためには血統にはあまりこだわりがない。役者としての能力が未知数である実子に名跡を継がせるよりも、内弟子の中で「筋のいい」者に名跡を継がせる方がよいと考えてきた。
大名跡「市川團十郎」の場合
徳川時代から江戸歌舞伎の名声を尾上菊五郎と二分してきた市川團十郎の家系を見ると、家を守るための苦闘の跡が偲ばれる。
初代團十郎は、17世紀後半の元禄期に東北地方から江戸へ出て、中村座の舞台に上がり、荒事(あらごと)芸で一世を風靡(ふうび)した。表情を誇張した大胆な隈取り(くまどり)と派手な衣装、武者姿で舞台狭しと暴れ回る、それまでの歌舞伎にはなかった勇壮な所作が人気の源泉だった。初代は、興行人気を引き継ぐ「荒事芸」の後継者を必要とした。
初代は28歳で設けた長男を幼いころから舞台に上げて共演し、芸の真髄を教育した。ところが45歳で共演した弟子に上演中の舞台で刺し殺されてしまうという事件が起きる。長男は17歳で二代目を襲名したが、芸はまだ未完成だ。二代目は苦労を重ねたが、とても父の芸には敵わない。上方の和事(わごと)の世話ものを開拓する工夫で興行権を引き継いだ。親の猿真似に終わらず、荒事芸をさらに磨いた上で、新しい分野を切り開く。
歌舞伎の世界にとどまらずあらゆる企業社会に共通であるが、まさに偉大な創業者の後を継ぐ二代目の成功例がここにある。父の劣化コピーを引き継ぐだけでは事業は必ずジリ貧となる。その二代目には子がなかった。血統でいうとここで絶えるのだが、二代目は血筋に拘らず、早々に初代の弟子の子を養子にとり15歳で三代目を襲名させた。ところが、三代目は22歳で亡くなる。市川宗家は、その後、四代目も養子でつなぎ、血統に拘らず、芸の継承を優先させた。今も市川團十郎家といえば、荒事が家の芸として引き継がれている。
血統と家芸の継承
話はもどる。上方歌舞伎の世界では、血統よりも名跡(芸)の継承を優先させる傾向が強いという話をした。やはり上方芸能の人形浄瑠璃(文楽)の世界も同じである。名跡とそれに伴う家芸の継承、そして興行権と「贔屓(ひいき)筋」「タニマチ」という後援者を後代へ引き継ぎ、確保するためには、内弟子から芸達者に名を継がせる方が効率的であるという発想だ。その発想の背景には、大阪船場の商家の暖簾継承の文化があるとの見方もある。
男の子に商才と事業への意欲があるかどうかは成人しなくてはわからない、と大阪商人は考えた。それなら他家あるいは使用人の中の優秀な人材を選んで跡を継がせることも厭わない。しかし他人が家計に関与することは、お家騒動のきっかけともなる。
二つの事情を解決する方法がある。娘に優秀な使用人、あるいは他家の人材を婿養子に取ることだ。だから船場の商家では娘の立場が伝統的に強かった。老舗の多くは女系家族なのである。次回は、伝統的な商人の世襲について考えてみる。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『世襲 政治・企業・歌舞伎』中川右介著 幻冬社新書


















