三国の熾烈な天下取りの争いを制した魏の曹操は、何よりも人事術において呉の孫権、蜀の劉備のライバル二人をはるかに凌いでいた。人材確保と登用の基準は、当時としては型破りであった。
彼の人材確保に当たっての基本は、“一芸一能主義”にあった。武なら武、智謀なら智謀、その一点で優れてさえいれば、家柄の良し悪し、徳のある無しも問わなかった。万能の人格を求めなかったのだ。
曹操は、繰り返し「求賢令」を出して、部下に埋もれた英才の推挙を命じた。建安15年(西暦210年)の求賢令では、「家柄が卑しくとも、才能だけを基準に隠れた人材を探し出せ。あとは私がその才を活用する」と言い切っている。今でも、出自とコネがものをいう中国社会にあって、固陋(ころう)な習慣を打ち壊す人事革命だったと言ってよい。
また、7年後の令では、有名な股潜りの恥辱を経験した韓信を例に挙げて、「にも関わらず、(前漢を開いた劉邦を支え)よく王業を成就させたではないか」とし、「いま天下には、民間に放置された優秀な者がいる。勇敢で命も顧みず、敵を前にして力戦する者がいるはずだ」と推薦の基準を明示している。
こうして曹操は、広く人材を手元に集め、適材適所でその能力を発揮させてゆく。
そんな人材はひと癖もふた癖もあるものだ。トップとして、彼らを包み込む器の大きさを備えておればこそ、自在な活用が可能だった。
『正史三国志』には、曹操の人使いの巧みさを教えてくれる逸話に事欠かない。
ある年、曹操は宛の地を攻め、敵将の張繍(ちょうしゅう)を討った。張繍は一旦降伏したが、すぐ裏切り、曹操を返り討ちにする。戦いに明け暮れた曹操の人生で最大の敗北を喫する。長男と甥を失った。張繍は不倶戴天(ふぐたいてん)の敵、恨み骨髄、のはずだが・・・。
三年後、曹操が官渡の地で宿敵・袁紹(えんしょう)と対峙している時、その張繍が参謀の助言に従い軍勢を率いて曹操に下ってきた。「度量の大きい曹操のこと。必ず、張繍どのを厚遇するはず」と策を張繍に授けた参謀の賈詡(かく)の読みは当たった。曹操は怨敵を受け入れ、縁戚関係まで結んだ。
しかし、曹操は、張繍を飼い殺しにし、一切の重責は担わせなかった。それに反して賈詡への待遇は違った。参謀として重用するのである。
「怨敵をも受け入れる曹操様は太っ腹」との評判を呼び、さらに天下の四方から人材を魏に集中する大きな宣伝効果をもたらした。そして無論、賈詡という名参謀まで手に入れた。
天下取りの原動力は、まさに人事力の勝利にあった。