織田信長ばやりである。
戦前は太閤記、つまり秀吉が盛んに読まれ、信長や家康の本はほとんど出ていない。もっとも太閤記の中には信長や家康も十分に出てくるから別個の伝記は必要としなかったともいえる。
戦後に山岡荘八が家康の尨大な物語を書いて人気を博した。戦後の平和志向は、徳川の泰平時代を開いた家康を歓迎する下地があったのだ。
明治維新は反徳川幕府革命であったから、戦前の日本では家康は英雄になりにくかった。「徳川家の為に日本は欧米の先進国から後れをとったのだ」という維新の頃の「恨み」がまだ残っていたからである。
ではここ十年ばかりの信長ブーム―――信長の伝記は有名作家のものだけでも片手の指にあまるぐらい出ている―――はどこからきたのか。それは信長が「断乎たる破壊者」だったからだと思う。
ここ十年以上、日本はバブル以降の不況に苦しみ、国際的地位の沈下―――クリントン大統領のジャパン・パッシングが一例である―――を味わい、どこを見てもイライラするほど改革が進んでいないという印象を国民が抱いていた。
「だれかガーンと破壊的革新をやってくれないかなぁ」という気分が国民の間に漲っているのではないか。断乎たるリーダーが欲しい、という一種の英雄待望論があると思う。
「断乎たるリーダー」と言えば日本史上で織田信長ほどの人は珍しい。先ず十倍もの兵力を持つ今川軍を桶狭間で破った。その勝因はインテリジェンス、つまり諜報活動だった。
そのスパイの親玉梁田を軍功第一とし、百万石の大名の首を取った勇者の手柄はその下だった。前代未聞の恩賞の与え方である。また有能であれば明智光秀のような流れ者でも、秀吉のような草履取りでも大大名に抜擢した。これも前代未聞の人事考課である。
天下布武の方針に邪魔となるとわかると、比叡山を焼打ちし、数千といわれる人々を僧侶もろともみな殺しにした。比叡山の僧兵はかの後白河法皇ですら「ままにならぬはサイコロの目と加茂川の水と比叡山の僧兵」と嘆いたぐらい、誰も手を出せない権力だったのである。文字通り前代未聞のことである。
そのほか毛利の水軍が強力と知るや鉄甲船を造って一掃し、無敵と言われた武田の騎馬隊をも馬防柵と鉄砲の連続発射で潰滅させる。一向宗徒も大量虐殺する。いずれも前代未聞のことである。
かつて徳富蘇峰が見事に示したように、日本の近代は信長から始まったと言ってもよいのである。日本の中世は彼によって終止符をうたれたのだ。
信長のやることは「断乎」という特徴がある。今の日本人は「断乎としたリーダー」を求めているらしい。
日本が占領下にあった七年、つまり日本が主権を占領軍に奪われていた七年間の法律は、憲法を含めて全部リセットしてくれるような断乎たるリーダーを求めるように国民はなっている。
月刊誌『諸君!』の四月号に信長の子孫に関する次のような記事があった。ご参考までに紹介しておく。
全国高校スケート選手権のフィギュア男子で初優勝した織田信成(16歳)はホントに織田信長から数えて17代目の末裔である。この人に『諸君!』は次のようなエールを贈っている。
「早く大きくなって政治家になり、ご先祖様と同じ活躍をしてくれ。信長は、宗教団体が信者の数を恃んで、世俗のことに口出しするのを激しく嫌った。延暦寺の焼打ち、一向一揆の徹底的な弾圧、いずれも有無をいわせぬ強硬策だった。
いま日本は再び国政を宗教団体に壟断され、政府は何を行うにも一挙手一投足を「先生」とその信者に相談しなければならない。待たれるのは信長の果断と行動力である。
信成よ、早く転身して日本を救ってくれ。急がないと人生わずか五十年、化天のうちをくらぶれば、夢マボロシのようであるぞよ…」
渡部昇一
〈第29
「織田信長(全5巻)」
山岡 荘八著
講談社 刊
各756円(税込)