- ホーム
- 指導者たる者かくあるべし
- 逆転の発想(8) 心を攻める(諸葛亮、カエサル)
背後を固める
久しぶりに『三国志』の世界から。蜀の劉備に仕えた諸葛亮(しょかつりょう=孔明)の軍事の定跡を逆転させた深謀遠慮ぶりである。
223年、名君・劉備(りゅうび)が崩じるや、蜀の南方の諸郡が一斉に反乱を起こす。危機の中で、丞相の孔明は呉と休戦、同盟を結び、二年後に南方の討伐に大軍を送る。
先帝の遺志をついだ孔明としては、北方に攻め上って魏を討ち、漢王室を再興することが急務だったが、背後が不安定では国を留守にして北伐の軍も送れない。さらに南方の諸郡は穀倉地帯で、兵糧の確保のためにも捨て置けない。南征は焦眉の急である。
蜀軍は各地で反乱軍を破った。反乱軍の首謀者である孟獲(もうかく)に懸賞金をかけてついに生け捕りにした。彼を処刑すれば、敵は散り散りばらばらになるだろうが、孔明のとった行動は違った。
捕獲した孟獲に各陣営を案内し、「この陣容にお前は勝てるか?」と見せつけたのだ。孟獲は、「これまでは、あなたの手の内が見えなかったので負けましたが、陣を拝見してこれなら次は勝ってみせます」とうそぶいた。
孔明は、笑って孟獲を釈放した。
破った敵を七度許す
戦いは続き、孔明は孟獲を七度釈放し、七度生け捕る。七度めも孔明は釈放しようとしたが、孟獲は止まって去らず、こう言った。
「あなたは神のように強い。われわれはもはや背くことはない」
また孔明は占領地の支配を現地の長老に任せて、軍を引いた。いずれの策も孔明には理屈があった。孟獲は地元民の信頼が厚い。彼を処刑すれば、住民たちの抵抗は続く。力で屈服させるより、相手の心を説得し従わせる(心を攻める)方が、効率がいいと言うことだ。占領のコストパフォーマンスの問題だ。
地元民に反乱を治めたばかりの地域の支配を任せることには当然、周辺から反論が出た。三国志には孔明の反論の言葉が残っている。
「もし外来の(蜀中央の)役人を残すなら、治安のための軍の駐留も必要だ。兵を止めれば、食糧も必要だ。さらに、彼らはこの戦いで男たちが多く死んだ。恨みが残り強圧で支配すれば、禍が起きる。兵隊も残さず兵糧も送らずに支配する、わしの判断が得策だ」
柔らか頭がなせる逆転の定跡返しだ。
ローマ帝国の将軍、カエサルもガリアを攻めたとき、ガリア人の師弟をローマに招き、高度な文化を体験させた。帰国した若者たちはローマのファンとなり、長い平和が保たれたという事例もある。これも心を攻めるエピソードである。
内政の人の限界
背後の安定を得て、食糧は安定的に確保でき、さらに東南アジアへの交易路も開かれて蜀の経済は潤うこととなった。孔明はいよいよ劉備の遺志を実現すべく、有名な「出師表」(すいしのひょう)で決意を表明し、丞相自ら軍を率いて北伐に取り掛かる。
しかし数次の北伐軍派兵はことごとく失敗し、孔明は五丈原の陣で無念の死を遂げ、蜀は破れ去る。
後世の小説、演劇の脚色以前の正史『三国志』を読む限り、諸葛亮(孔明)の軍指揮官としての才能は見るべきものがない。先帝・劉備も存命中は彼に陣後の内政を任せたが、将軍として兵を指揮させたことはなかった。
類まれなる才に富む孔明の最大の不幸はといえば、安心して軍事を任すことのできる将軍を持たなかったことだろう。劉備が、軍人育成、あるいはスカウトに意を用いていたならば、孔明の機知と才は、さらに大きく輝いたに違いない。
人事の量と質で蜀は、のちに天下を取ることになる曹操の魏には遠く及ばなかったのである。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『正史三国志5(蜀書)』陳寿著 裴松之注 井波律子訳 ちくま学芸文庫
『三國志 蜀書』陳寿著 裴松之注 中華書局
『漢書・後漢書・三国志列伝選』 本田済訳 平凡社
『三国志きらめく群像』高島俊男著 筑摩書房