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万物流転する世を生き抜く(30) 英雄の嘆き

指導者たる者かくあるべし

 遠征軍を置き去りにして、出発から6か月後の1812年暮れ、真冬のパリに命からがら逃げ戻ったナポレオン。
 
 彼は帰国二日後に元老院で、「わが軍が多少の損害をこうむった」と強がって見せた。しかし、現地では“大将”を失った兵士たちは、極寒の大地で後を託したミュラー元帥の指揮から離れフランス軍は一週間で瓦解した。
 
 かろうじて帰国を果たした兵士たちは、地獄絵図とナポレオンへの不信を語っている。神話は崩壊した。
 
 案の定、ヨーロッパ各国は、「ナポレオン敗北」の報に一斉に、「諸国民解放戦争」に立ち上がり、パリに攻め込む。
 
 皇帝退位、放逐されたエルバ島からの脱出、ワーテルローの戦いで再度の敗北、南大西洋のセント・ヘレナ島での監禁、そして死————という不屈の英雄の逸話ばかりが語り継がれているが、フランス国民の“英雄時代”への郷愁を引きはがせば、ロシア遠征の各局面で見たように、ナポレオンは単なる一凡将でしかない。
 
 そしてナポレオンの退場後、フランスは、彼が思い描いた同一通貨、統一法、同じ制度に基づく「ヨーロッパ合衆国」の理想とは裏腹に、王政復古、無能なナポレオン三世の登場による混乱に放り込まれるのである。
 
 彼の挫折はロシア遠征に始まった。ある歴史家は、その失敗の原因について、「当時、最高の将軍なら、これを予知し避けることができたはずのものである」と手厳しく指摘する。
 
 あと一か月早く攻撃を開始していれば、冬の到来までに作戦を終えることは可能だった。ロシア軍をいま一歩まで追いつめたボロジノの戦いで近衛軍を投入していれば…。いずれの局面でも、逡巡と一貫性のなさが、勝利の女神を遠ざけた。
 
 だれもが助言を躊躇するワンマンの指導者であればこそ、その一瞬の迷いと誤判は組織の死を招く。ワンマンにこそ、忠言者の存在と、その忠告を聞く耳が不可欠なのだ。
 
 死を免れて絶海の孤島、セント・ヘレナ島で六年を過ごした英雄は廃人同然に、過去の栄光をただ振り返るばかりであった。
 
 ある時、彼は自伝の口述筆記者に呟いた。
 
 「自分はモスクワで生涯を終えるべきだった。君はそう思わないのかね?」
 
 英雄が英雄として生を閉じるには、ロシア大遠征の失敗は、毎夜夢に見るほど心残りだったに違いない。
 
 
 ※参考文献
 
『ナポレオン上・下』エミール・ルートヴィヒ著 北澤真木訳 講談社学術文庫
『ナポレオン自伝』アンドレ・マルロー編 小宮正弘訳 朝日新聞社
『ナポレオン一八一二年』ナイジェル・ニコルソン著 白須英子訳 中公文庫
『セント・ヘレナ覚書』ラス・カーズ著 小宮正弘編訳 潮出版社
 
 
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  著者/宇惠一郎 ueichi@nifty.com 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

万物流転する世を生き抜く(29) ナポレオン軍、冬に飲み込まれ自壊前のページ

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