源義経には「悲劇の英雄」のイメージがつきまとう。源氏の宿敵である平氏一族の覆滅に第一の功労を挙げながら、鎌倉幕府を開いた兄頼朝に疎まれ、奥州・平泉に落ち延びて非業の死を迎えた。
幼いころの牛若丸伝説、武蔵坊弁慶との出会い…。その死から800年以上を経た今も、庶民の圧倒的支持を得て、幾度も大河ドラマが製作される。九郎判官という彼の別名から「判官びいき」という語もあるほどだ。
しかし、まとわりつく伝説のベールを剥いでいくと、彼も兄に対抗して天下を目指していた野心家であることが分かる。だが彼の夢は挫折する。挫折には原因がある。
頼朝にあり、義経に欠けていたもの、それは天下取りに向けて時代の流れを読むセンスだった。
1185年(寿永4年)3月24日、平氏追討指揮官の義経は西国武士と軍船を率いて壇ノ浦に平氏一門と戦い、敵を海中に葬り去った。
頼朝の命を受けて先に山陽道から九州に出陣していた義経とは九つ違いの兄、範頼(のりより)が征討に手こずるのを尻目に、この年の二月に大坂を出陣した義経は四国の屋島に続いての勝利で、一門の宿敵をまたたく間に海の藻くずと消し去った。
平氏討滅は頼朝だけでなく、平氏の横暴に手を焼く後白河院を中心とする朝廷の悲願でもあった。義経は得意の絶頂にあった。兄の覚えもめでたく、朝廷から官位を授かることも夢ではないはずだった。
平氏残党の高位の捕虜を伴って上洛した義経だったが、鎌倉に陣取る頼朝からはねぎらいの言葉もなかった。
壇ノ浦勝利の報が鎌倉に届いたとき、頼朝は、感慨深げに自らの半生を振り返っていた。折しも、父義朝(よしとも)の菩提をとむらう勝長寿院の棟上げ式が行われていた。26年前の平治の乱で、父は平清盛に敗れて惨死、13歳だった頼朝は伊豆へ流刑となった。
「父祖の恨みと父の無念は晴らした。しかし」
平氏亡き後、この先待ち構えているのは、権謀術数に長けた後白河院との間で予想される、日本の支配権をかけた熾烈な政治闘争であった。
「いかに朝廷を押さえ込んで武士の世を作るか、そのことを義経はわかっておるのか」
頼朝の胸中に義経への疑念がもたげはじめていた。
間もなく、義経の目付役として頼朝がつけておいた梶原景時(かげとき)から義経弾劾の書状が鎌倉に届く。