外交戦が生んだ軋轢の延長線上で武力衝突に至るのが戦争であるならば、戦争の終結もまた外交に委ねられる。
講和のタイミング、自国の要求の優先順位、相手の出方、国際世論の動向などを踏まえて真の交渉力が問われる。アジアの新興国の日本が大国ロシアを相手に戦った日露戦争の後に米国ポーツマスを舞台に繰り広げられた講和交渉は、交渉術を見る格好の教科書だ。
満州、朝鮮半島の覇権をめぐり1904年(明治37年)2月に火蓋が切られた日本とロシア両軍の激突は両国の総力戦となった。
翌1905年3月、陸軍は満州奉天での大会戦でロシア軍を退け、同5月の日本海海戦で東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃滅すると、日本国民は勝利に沸いた。
しかし極東の小国にはもはや継戦の余力はなかった。
国外からの膨大な借金で賄ってきた戦費は底をついていた。何よりも、11万5千人を超える死者数はロシアの4万2千人を大きく上回り、兵の補充は限界にあった。
ロシアは大量の予備役を召集しシベリア鉄道で続々と満州に送り込んでいた。
陸海ともに日本は勝利を上げたとはいえ、ロシアにとってみれば自国領土に攻めこまれたわけではない。日本国民の「勝った、勝った」の熱狂とは裏腹に、現地軍は惨憺たる状態にあった。
奉天会戦の8日後の3月末、バルチック艦隊が極東への海路を急いでいるさ中、満州軍総参謀長の大将・児玉源太郎は満州を発って新橋駅等に降り立った。
「戦争を始めたものは戦争をやめることができなければいけない。貧乏国がこれ以上戦争を続けて何になるか」。児玉は語気鋭く政府中枢を説いてまわった。
外務大臣の小村寿太郎が、「講和の有利な条件を得るために今一度ロシア軍を叩くべきだ」と要求したのに対して児玉は、「陸軍には余力はない」と突っぱねた。
兵士の命を預かって戦う軍はリアリズムで動く。国際関係の力学しか見えない外務官僚のエリートが振りかざす空論と違い、児玉には大局が見えていた。そして直言した。
リーダーたるもの、現地部隊のリアルな意見を吸い上げることができるかどうかで、組織を生かしも殺しもする。講和のタイミングを失した太平洋戦争時の国の失策もここにある。
明治国家のリーダーたちはどう決断したか。 (この項、次回に続く)