昭和恐慌で噴き出した財閥批判
1932年(昭和7年)3月5日、三井財閥の総帥(三井合名会社理事長)、団琢磨(だん・たくま)が、東京日本橋の三井本館玄関で、右翼の凶弾によって暗殺された(血盟団事件)。当時、1929年10月24日にニューヨーク株式市場で株価が大暴落した影響は世界に及び、日本経済も深刻な打撃を受けていた。
失業者があふれ、昭和恐慌と呼ばれるこの時代に、三井、三菱、住友という三大財閥への富の集中が進みつつあった。これに対して、国民の中に「国が苦しい時に財閥は利益第一主義に走っている。国賊だ」との批判が噴出し事件に繋がった。
この暗殺事件を契機に財閥は、社会批判への対応を取らざるを得なくなる。社会事業への寄付を始め、株式の公開にも動く。世にいう財閥の転向だ。
金本位制死守の混乱と財閥によるドル買い
元はといえば、混乱の元凶は、第一次大戦後の世界の経済動向に対する政府の不適切な対応にあった。第一次世界大戦が終わり、日本を含めて各国は世界同時不況からの脱却を模索していた。
各国の通貨政策は、自国通貨を金の価値と連動させる金本位制をとっていた。
第一次大戦中は各国とも金本位制を停止したが、次々と金本位制に戻り始める。日本は対応が遅れていた。世界共通の通貨政策から孤立しつつあった。昭和恐慌時の民政党政権は、金本位制への復帰(金解禁)を打ち出した。ところが、英国をはじめとする欧米は、政府による金の保有に基づかない為替本位の国際金融体制を模索し、1931年9月21日、世界の金融センターだった英国は金本位制を停止する。わが国が金本位制にこだわり続けていては、日本円の価値が下がる。そう見た財閥系の銀行は、手持ちの円をドルに変えて資産を保全しようと試みる。
自然の流れだったが、将来の円安傾向を見越したドルの先物買いに火がついてしまう。貿易決済に必要なドル買いなのか、投機的ドル買いなのかの見極めは難しく、政府は投機的動向の取り締まりに右往左往する。この動きに、国民は、「財閥は不況克服に向けた政府の努力に逆行して自分たちの利益追求に血道をあげている」と見て、「財閥は国賊」のイメージを膨らませていく。
転向の中身
国民の不満は、大手財閥すべてに向けられたが、最も衝撃を受けたのは持株会社のトップを暗殺された三井だった。このままでは、だれもトップに就きたがらない。会社が生き延びるためには、会社としてのイメージの刷新が必要だ。その内容は。
1、傘下企業(三井銀行、三井物産、三井鉱山)社長から三井一族の退任。
2、社会事業への寄付を行う「三井報恩会」設立。
3、傍系企業(王子製紙、北海道炭鉱汽船)の株式公開。
いずれもイメージ戦略の域を出ず、株式が公開された企業に直系企業は含まれず、財閥本体を三井一族が所有し支配する構図に変わりはなかった。その構図が一掃されるのは、敗戦後のG H Q(連合国軍最高司令官総司令部)による財閥解体という外圧を待つほかなかった。
企業は元始、利潤を追求する存在だ。しかし、それだけでいいのか。企業と倫理は無縁なのか。企業はだれのものか。今も引きずる問題である。
書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』菊地浩之著 平凡社新書
『財閥の時代』武田晴人著 角川ソフィア文庫
『財閥のマネジメント史』武藤泰明著 日本経済新聞出版