満州軍総参謀長の児玉源太郎(大将)の説得もあって、日本政府首脳は和平追求で一致する。5月末、日本海海戦での勝利を機に、外相・小村寿太郎は駐米大使を通じて米国のルーズベルト大統領に講和の斡旋を依頼した。
継戦を決めていたロシアも6月に入り、斡旋を受け入れた。 陸海ともに日本軍が優勢とはいうものの、日本近海の制海権を失ったロシアも陸軍が満州での反攻を準備している。和平の交渉は厳しいものが予想された。元老の伊藤博文も全権大使の任を固辞した。交渉決裂、あるいは満足な結果を得られなければ政治生命を絶たれる。
結局、外相の小村が全権として派遣されることになった。
7月8日、横浜に向けて新橋駅に立った小村を群集は「万歳、万歳」で送り出した。多大な兵士が満州の野に倒れた。「たんまりと賠償金を取って来い」というのが兵士の遺家族のみならず新聞の論調でもあった。
しかし政府の中枢は、「賠償は、本土に攻め込まれたわけでもないロシアが応じないだろう」と踏んでいた。せめて大韓帝国を保護国化して朝鮮半島からロシアの影響力を排除し、満州、沿海州を非武装化し、ロシアの極東海軍の再建を阻む、それが落とし所だと考えている。
沸き立つ国民世論の前にそんな本音はおくびにも出せない。駅頭で小村はつぶやいた。「帰ってくるときはこの人気は正反対だろうな」。凶刃に倒れることも覚悟していた。
「せめて、交渉までに領土要求の伏線を敷いておく必要がある」。小村の強い主張で陸海軍は駆け込みで無防備なロシア領サハリン(樺太)をなんとか占領した。
厳しさはロシアも同じである。簡単に決着をつけるつもりが予想外の連戦連敗で国内には不満と厭戦気分が蔓延している。下手をすると帝政廃止の革命にも繋がりかねない。
では継戦か。同盟国のフランスはこれ以上の戦費の起債引き受けに消極的だ。そうした雰囲気で事実上の敗戦処理を引き受けるものはいない。
人選難航の末に元蔵相で半ば引退していたウイッテに“貧乏クジ”がまわった。
ウイッテは、日露開戦に最後まで抵抗した経緯がある。「極東で問題を起こしている場合ではない」。今もそれは本音である。
しかし、ロシア皇帝のニコライ二世は出発するウイッテに釘を刺した。
「いかなる場合でも1コペイカの賠償金も1インチの領土も譲渡してはならない」
ニューヨークへ向かう船の中で、小村、ウイッテはともに苦しい事情を抱え国益確保のための秘策を練っていた。
(この項、次回に続く)