年を重ね、社会的な地位の向上も伴うにしたがい、いろいろな局面でスピーチを求められることもあれば、冠婚葬祭への出席も多くなる。そうした席、特に祝事や弔事で使ってはいけないとされている「忌み言葉」。幸先の良いスタートに相応しくない、あるいは不幸の連鎖を想像させるような物がそうだと言われている。
例を引くまでもないが、結婚式で「離れる」「別れる」、告別式などで「続く」「重なる」などが一般的だろう。また、「するめ」を「当たりめ」、「擂り鉢」を「当たり鉢」と言い換えるのは、「お金をする」という「音(オン)」に通じる文字を避けた結果だ。こうした言葉を避けるのは礼法上や縁起の問題で、科学的な根拠はない。よくいう「験担ぎ」というやつだ。「忌み言葉」の反対で言えば、大きな勝負の前に、「敵に勝つ」の意で「かつ丼」、あるいは「ステーキとカツ」を食べるのと根っ子にある精神構造は同様だ。
ここまでは昭和期辺りまでによく聞かれた話だが、最近は「ハラスメント」の種類が膨大になり、言葉の意味や性質だけではない広がりを持ってきただけにさらにややこしくなった。
「その服、似合うね」と褒めても、先方が好ましく感じなければそれは「NGワード」になる。困るのは、同じ言葉でも発する人により立場が変わることで、褒めてくれた人に好意を持っていれば何も問題にはならない。「忌み言葉」のような統一性がなく、一覧表にできないところが、問題を複雑にしているのだ。とは言え、現代はハラスメントを視野に入れた上で「忌み言葉」を考えなくてはいけない時代になった。
言葉は時代と共に変容する運命を持っている。昨今よく指摘されるように、「ヤバイ」という言葉も世代によって全く意味が違う。大雑把に言えば、中年以上の人々には「危険」「マズイ」などを意味するマイナスの要素を持つが、若者は「凄い」「とても」など、プラスの表現で使用している。また、アクセントも語尾が半分上る「半疑問形」のような言葉も増えた。テレビの時代劇などは、目を閉じて聴いているとまるで現代劇のようなアクセントになっている。
ここで、「言葉咎め」をすることに意味はない。それよりも、言葉の裏側にある精神性を考えた方がよさそうだ。よく言われるように、日本では古来より言葉には霊力が宿るという「言霊」の感覚がある。冒頭で例を挙げた「忌み言葉」の根源もこの発想だ。縁起の悪いことを言うと、それが実際に起きるという証明のしようのない問題が、我々の深層心理の中に根強く生きている。その上、親切な日本人の中には、キリスト教徒でもないのに「13日の金曜日は縁起が悪い」と、よその国の習慣まで引き受けている人がいる。これは皮肉ではなく、それだけ言葉に鋭敏な感覚を持っていることに他ならない。余りにも多様な表現方法を持つ日本語を使う身として、長年の間にDNAレベルにまで沁み込んだもので、この感覚は一朝一夕に変わるものではなく、無理をすることもない。
ただし、ビジネス・リーダーや大きな力を行使できる立場にある人は、そうとばかりも言っていられない。誰でもそうだが、自分よりも上に立つ人からの言葉は、何割も力を増して聞こえるものだ。優しく叱ったつもりでも、叱られた方はその時点ですでにマイナスの感情から出発している。そこに飛んで来る叱責の言葉は、通常よりも遥かに大きなダメージを与える。褒める場合は基本的に逆の場合が多いが、さりとて気が楽だとも言い切れない。
要は、自分の地位が高くなればなるほど、同じ言葉でも持つ力が違うことを、明確に意識をしなければならないということだ。「千金の重み」という言葉がある。時と場合にもよるが、リーダーが発する言葉には、これほどの力や重みがあるのだと考えれば間違いはないだろう。
歴史的な「忌み言葉」、ハラスメントを意識したNGワードだけでも大変だが、リーダーはそれに加えて、場合により相手ごとに「NGワード」を持たなければいけない時代になった。特に、叱る時にはこの点によほどの注意が必要である。
「だから、君は〇×なのだ」の「だから」。本来は、「だから」の前に何かの言葉や文章があってこそ成立するものだ。そこを省いていきなり「だから」と言われると、相手によっては自分の全人格を否定されたように感じることがある。ここで言葉惜しみをせずに、「事前の準備が不足していたから」「再確認をしないから」「何でも慌ててやろうとするから」と、「だから」の内容を具体的に示すことで、相手のショックを減らすと同時に、具体的なミスの内容を示すことができる。
日々、取引先、部下、世間に対し、神経を張り詰めて物を言わなければならないリーダーたちは、これでは疲弊するばかりだ。いくらトップに立つ者とは言え、これでは割に合わない。そんな皆さんに、秘密の言葉を。慌ただしい一日にけじめを付けたい時は「今日はこれでおしまい」と言って、しばらく目を閉じ、綺麗な風景を思い浮かべ、深呼吸をすることだ。ただし、この際に「終わり」と言ってはいけない。「終わり」は頻繁に使われるが、本来は人生の最期に一度だけ使う言葉だからだ。この辺りで、今日はお・し・ま・い。