全国に広がる飢餓地獄
18世紀前半、第10代将軍・徳川吉宗は、上下する米相場の変動に対して、商人の力を借りながら苦闘した。結果的には、吉宗の統治約30年間の米相場は、江戸時代全体をならして見ると、比較的安定していた。
様相が一変したのは、18世紀後半に襲った天明(てんめい)の大飢饉だ。東北地方を中心に異常気象によって未曾有の凶作に見舞われた。死者数は13万人とも100万人に達するとも言われる。米不足から米価の高騰は数年にわたって続き、老中の田沼意次(たぬま・おきつぐ)は失脚した。
人災、政災としての飢饉
東北地方は、1770年代から冷夏傾向がつづき、洪水も相次いで米の収量が低下していた。一方で米増産を目指す幕府は、米作に向かない東北地方の開墾を奨励し、米の収量は飛躍的に伸びていた。首都江戸の食糧供給基地となりつつあった。現在、東北地方は米の一大生産地だが、当時は、現在のような耐冷品種の開発も進んでおらず、西南地方と同じ暖地米が作付けされていたのだ。
東北の諸藩では、財政苦境から脱却するため、大坂、江戸の市場で換金可能な綿花、ハゼ(ろうそく原料)、紅花などの栽培を奨励し、飢饉に備える粟、ひえ、蕎麦などの耕作面積は縮小している。
また、大飢饉に先立つ不作傾向は米相場をじわじわと押し上げて、チャンスと見た諸藩は、飢饉に備えて取り置いていた備蓄米を大坂の米市場へ運んで換金し、商人からの借金の返済にあてていた。
そして天明3年(1783年)に破局が訪れる。この年の東北地方は春先から少雨で夏になっても気温が上がらず、稲穂は実らない。さらに、7月には浅間山が大噴火し、降灰と日照不足で関東地方の米作も壊滅状態となる。
米不足の状況から各藩は、収穫した米の他藩への移出を禁止したが、港に滞留した米を江戸、大坂の米商人たちが高値で買取り売りさばく、需給原則で米相場はあっという間に十倍にも跳ね上がった。
米はとれず、救荒作物もない東北地方の農村の状況は、まさに生き地獄となったが、米価の高騰は都市に暮らす庶民の間にも餓死者が続出することになる。米産地の飢餓状態が、都市に移出された形だ。
飢饉による混乱は、天明8年(1788年)まで続く。各地で米商人の蔵を襲う暴動「打ち壊し」が相次いで治安は最悪の状態となる。
求められる長期農業政策
緊急時に備えるべき備蓄米を、目先の財政効果だけに目を奪われて事前に放出する愚。救荒作物の農地を多用途に転用する。商品流通の担い手である商人たちの動きを有事に統制できない幕府。引き金は天災であっても、事態を悪化させたのは幕府、藩政府の失政、人災だった。
笑い事ではない。政府は、昨年秋以来の米価高騰対策として政府備蓄米を大量に放出した。農水省によれば、3月末時点で96万トンあった備蓄米は、7月末時点で15万トンを残すだけである。政府は放出の理由を、「高止まりしている米価を引き下げるため」としているが、それが、「10年に一度の不作、あるいは2年連続の不作」という放出条件を満たしているのだろうか。しかも、消費者の手元に届く米の値段はさほど下がっていない。先月の参議院選挙に向けて国民の怒りを恐れた与党の選挙対策だったと見られても仕方ないだろう。
備蓄米が底をつきつつある現状で、今年の猛暑で各地の農家から今年秋の作柄への不安が囁かれている。真の有事に備えた米の確保はできているのだろうか。
政府は、「今年は、昨年までの加工米、飼料米作付け面積のうちの多くが主食米用に変更されているので、今年の米の収穫は十分」と説明している。
しかし、国民が求めているのは、そういう小手先の帳尻合わせではない。農家が安心して米の生産に従事できるための米価はいくら位が適正か、消費者が安心して米を購入できるだけの収量は確保できるのか。
それに応える長期的視野に立つ総合的な農業政策の確立と実施なのだ。今は21世紀なのだ。全国統一政策実施が難しかった江戸時代ではない。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史17 町人の実力』 奈良本辰也著 中公文庫
『日本の歴史18 幕藩制の苦悶』 北島正元著 中公文庫





















