信用のない明治新政府の不換紙幣
今でこそ日本銀行券は日本経済への信頼を背景に国内外で安定して通用するが、内戦の末に出発した明治新政府による安定通貨の定着は難航を極めた。
明治政府は、戊辰戦争の戦費調達を目的に全国で流通する共通通貨として太政官札(だじょうかんさつ)を発行した。しかし武力革命で幕府政府から政権を奪取したばかりの新政府には未だ権威が確立されない段階で、通貨としての信用度は低かった。さらに太政官札は金や銀など恒久的な価値物との交換を前提とする兌換(だかん)券ではなかった(不換紙幣)だったため、思うように流通しなかった。庶民、商人にとっては紙切れ同然で、相変わらず江戸時代の金銀貨、銅銭が流通していた。トランプでいえばババ抜きのジョーカーのようなものだ。政府取引から遠く離れた場面では、いち早く手放してモノに替えた方が得とされた。
兌換券発行の試みも失敗
とはいえ、新政府は西洋列強の脅威を前に、富国強兵、殖産興業を掲げている。財政が窮乏していた徳川政府が残した御用金も乏しい。苦しい財政事情で、政商たちから前借りした戦費の返済もある。さらに鉄道、通信、道路などのインフラ整備や軍備の増強を図るのは、無から有を生み出すようなものだ。
明治初期の国庫を賄ったのは、地租改正で年貢に代わり農民が現金で納めることになった租税と、明治4年(1871年)から5年にかけて政府が発行した大蔵省証券と北海道開拓使証券という内国公債だった。その公債の発行業務の一切は政商の一つ、三井組(三井財閥の前身)に独占させた。三井組はその見返りに、発行高の2割を無利子で還流を受ける特権を得ている。
余談ではあるが、この三井工作を仕組んだのは、当時、大蔵大輔(たいふ=次官)だった長州閥の井上馨と大蔵省官僚だった渋沢栄一だ。清貧の経営者イメージのある新一万円札の顔となった渋沢にはこういう裏技師の一面もある。
曲がったことが嫌いな西郷隆盛は後日、岩倉遣欧使節送別宴会で、井上に対して、「さあ、三井の番頭さん、一杯いかがです」と嫌味を言ってのけている。
その後も全国で雨後のたけのこのように乱立する民間銀行が信用の薄い不換紙幣を乱発し、世はインフレが加速した。
政府は、価値の安定した兌換紙幣を発行し、不換紙幣を回収することが急務となる。そこで全国に国立銀行を設立し、金札を政府に納めさせる代わりに兌換紙幣発行を認める国立銀行条例(明治5年)を成立させた。第一国立銀行は、三井と渋沢が手を結んだ第一国立銀行だ。しかしこの試みも、国内の金不足から設立の条件を満たした銀行は4行にすぎず、兌換紙幣の全国流通には程遠かった。さらに、国立銀行設立条件を緩和して兌換券発行項目を外したことから、悪貨の乱発を阻止するに至らなかった。
日本銀行の設立
明治10年(1877年)には、西郷隆盛が明治新政府に反発して西南戦争を起こす。反乱は鎮圧されたが、多大な戦費の負担が政府を襲う。さらに不換紙幣の乱発もあって、諸物価は高騰しインフレが社会を見舞う。
農産物の庭先価格はこの年から5年間で毎年10%以上の上昇を示す。工業製品も同様で、明治13年と14年には、前年比20%も上昇した。
手をこまぬいていられなくなった政府は、明治15年(1882年)、兌換制度の確立と通貨の安定を目指して、政府中央銀行としての日本銀行を設立する。時の大蔵卿(大臣)は、「緊縮財政の鬼」と呼ばれた松方正義(まつかた・まさよし)だった。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史20 明治維新』井上清著 中公文庫






















