松平定信の登場
天明6年(1786年)8月に老中を罷免された後も、田沼意次は復活を目指して粘り腰を見せるが、米相場、諸物価の暴騰への怒りによる「打ちこわし」が江戸に及び、翌年5月、完全失脚した。そして、白河藩主の松平定信(まつだいら・さだのぶ)が後任の老中に就任する。
定信は、将軍職への就任機会もある御三卿の一家、田安家の跡取りだったが、田沼時代の政争に巻き込まれて白河松平家に養子に出されていた。享保の改革を推し進めた将軍徳川吉宗の孫で、血筋もよく、老中就任時30歳の若き俊秀だった。幕閣のみならず、庶民もその手腕に期待を寄せた。
天明の“石破下ろし”による混乱は9か月ぶりに決着し、定信は天明の大飢饉で動揺する幕政の改革に着手する。田沼時代の人事を一新して定信が取り組んだ矢継ぎ早の革新政策は、年号をとって「寛政の改革」と呼ばれる。
囲い米(米備蓄)と農村復興
定信が取り組んだ改革の眼目は、大飢饉で荒廃した農村の復興にあった。諸物価高騰の原因は、米相場の上昇にある。その元凶は、米収量の減少だ。離農して江戸などの都市部になだれ込んだ農民は治安の不安定さにつながっている。まずは元の村へ農民を戻す必要があった。耕作放棄地を減らし米の収量を増やす必要がある。農村人口の減少を防ぐ手立てとして。口減らしのための「間引き」(人口妊娠中絶)を禁じる。
しかし、定期的に襲う凶作は避けられない。米流通量の変動を防止するために、各藩に平時の囲い米(米備蓄)を命じている。収量一万石について、五十石ずつを備蓄せよと数字を上げて発令した。また、江戸市民50万人分の食料を確保するのに必要な種籾を常時保管することも命じている。政策が具体的なのだ。
令和の米騒動において、政府は当初、「令和6年産の米は平年作を確保している」として、流通が滞っているのが米価高騰の原因だと強弁した。農村地帯の奈良に住んでいる筆者は、昨年暮れの段階で「収穫はあるが、精米してみると割れ米、白濁米が多くて出荷できない」との声を農家、米小売から耳にしていたが、政府は一切認めてこなかった。あげくの果てには、「米は十分にある」としながら、なけなしの備蓄米の大半を放出するという政策矛盾をおかした。
放出に際して、取り扱い業者に対して、「放出分は後で備蓄米として戻すように」という意味不明の条件をつけている。最近になって政府は、生産量自体が不足しており、「今後は米増産政策に転換する」との方針を打ち出した。足りないのであれば、放出した米が備蓄倉庫に戻ることなどない。
長期的視野の農政の必要性
政府与党は、長年続けてきた減反政策が失政であったことを糊塗(こと)するために、嘘に嘘を重ねて、この事態を招いている。
定信の改革は、事実を事実として認め、スクラップ・アンド・ビルドの原則で貫かれていた。無駄な出費を省き、浮いた資金で必要な投資を行っている。
例えば、幕府の公金を低利で貸付け、その利子で農村復興、用水路工事の助成に当てた。また、この資金で、先に触れた間引きの禁止通達に合わせて、児童養育金の支給も実施している。近世のこの時期に近代的な福祉の発想も持ち合わせている。
定信の農村復興政策は、米相場を安定に向かわせるが、庶民に過度の倹約を強いる政策は不評で、彼は七年で辞職に追い込まれた。しかし、彼の先を見据えた政策遂行は、こんな「七分積金」のエピソードも残している。
江戸市中の町会には、大火や飢饉に備えた救荒基金が積み立てられ、防火施設の整備などに使われていたが、幕府は、町会が節約して浮いた資金の7割に、補助金を出し有事に備えた基金としていた。基金は協議会方式で厳格に運用された。幕末に至って、資金総額は170万両の巨額に積み上がっていた。財政不足に悩まされつ続けていた明治維新政府は、この資金を、学校建設や道路整備資金にこっそりと当てている。
維新政府が喧伝する「幕府は放漫経営で滅ぶべくして滅んだ」というのは、当たらない。
混乱する現在の行き当たりばったりの農政に欠けているもの。それは未来を見据えて長期的視野に立った総合的政策立案と遂行なのだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史18 幕藩制の苦悶』 北島正元著 中公文庫
























