財政方針をめぐる大隈重信との確執
国の中央銀行としての日本銀行創設に動いた松方正義(まつかた・まさよし)が大蔵卿に就いたとのは明治14年(1881年)のこと。同年の政変で。大蔵大臣だった大隈重信(おおくま・しげのぶ)が失脚したことによる人事だった。
薩摩藩出身の松方は、維新直後から大蔵・財務の最高責任者だった大隈のもとで、大蔵省の三等官として仕えた。西南戦争(明治10年)で多額の軍事費債務を抱える新政府にとっては財政の立て直しは急務だった。前回のテーマだった不換紙幣の乱発による急激なインフレ、物価高への対応も目の前の課題だった。
この問題について、大隈のスタンスは、不換紙幣の価値の急落は、裏付けとなる正貨(金・銀貨)の政府保有高の不足にあると見ていた。正貨の蓄積を図るには、殖産興業を急いで輸出を増やし貿易で外貨を獲得するという図式だ。
しかしこれでは時間がかかりすぎる。「10年や20年では紙幣価値は安定しないと」と松方は考える。国内生産の水準に通貨供給量を合わせて減らすべきだと考えた。インフレの原因は、実経済に不釣り合いな紙幣の流通量にあると主張した。大隈の青写真と真っ向から対立する。
大隈が政変で失脚したことで、大蔵卿に抜擢された松方はようやく自在に持論を実現させていく。
増税による庶民負担
松方の経済理論は、フランス仕込みの最先端の近代経済学だった。明治11年に半年間、フランスパリ万博の日本代表団に加わり、パリで知遇を得たフランス財務大臣、経済学者らから得た知識に基づいていた。中央銀行を中心とする統一的な通貨信用制度もその時に学んだ。それが、明治15年(1872年)の日本銀行創設へと繋がっている。
だが松方は、兌換紙幣としての日本銀行券の発行を急がなかった。まずは政府の財政基盤の強化に挑む。入り口は歳入増だ。手っ取り早いのは増税だ。財政規律を言い立てて、減税を渋り増税を図る現在の財務省の財政規律重視の姿勢はここに始まる。当時の歳入の中心は農民が年貢に代わって現金で納めることになった租税(地租)だ。明治8年段階で国税に占める地租の比率は65%にのぼる。松方が取り組んだ財政施策でインフレは収束を迎え、明治17年の米価は明治14年に比べて半額にまで急落したが、農民が負担する地租の総額は、4,300万円で横ばいだ。農家の収入は半減しているのに税額は同じで、農家の増税感は著しい。
減税環境は整っても、一度手にした金づるは決して手放せない、財務官僚の哀しいまでの性(さが)である。
長州閥の軍備増強の思惑
さらに松方は、次々と新鋭を導入して国民から国庫に税を巻き上げる知恵を働かせる。中小事業主に対する営業税(法人税)、酒税、煙草税等々。また、地方税も人頭税的な戸数割などの増税策を講じて、これらも国庫に振り分けられていく。歳入基盤を固めた上で、日銀は明治17年5月に日銀券を発行して、それと交換する形で大量の不換紙幣の回収に乗り出す。翌18年6月に日銀券の兌換化にこぎつけ貨幣の安定を果たした。背景となったのは、政府の信用度向上ではなく、国民の重税負担だったことを忘れるべきではない。
松方という男は愚直な男で、権謀術数の政治世界を泳ぐ才は乏しかったという。にもかかわらず大蔵卿に就任して以来、16年にわたって明治政府の財政最高責任者としてタクトを振るった。
その政治力保持の秘密は、伊藤博文、山縣有朋という長州閥との阿吽の呼吸だった。明治11年5月、薩摩出身で殖産興業重視の政治家大久保利通(おおくぼ・としみち)が暗殺されて、政府の実権は国防優先派の長州閥に移りつつあった。たとえば、先に触れた酒税の導入で生み出された歳入は、そっくり海軍の軍艦建造費に当てられた。手っ取り早く国防のための金を生み出す松方は、陸海軍の軍備充実を訴える山縣らにとって、「打ち出の小槌を持った大黒天」として庇護した。
そして、財政を立て直した明治日本の進路は、日清、日露の戦いを経て、海外進出、植民地獲得へと突き進むことになる。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『日本の歴史21 近代国家の出発』色川大吉著 中公文庫























