「大王(おおきみ)がお呼びです。物言いには気をつけられませ」。
7世紀後半、独裁権力をほしいままにした天皇・天智は琵琶湖のほとり、近江の大津の宮で瀕死の床にあった。天智の弟、大海人(おおあま、後の天武天皇)は親しい使者から宮殿に呼び出しを受けた。
「わしも永くはない。皇位を継いでもらえるか」。病床の兄の言葉に大海人はとまどった。
天智はこれに先立ち息子の大友(おおとも)を太政大臣に据え、だれの目にも大友後継の布石に見えた。
「心変わりか、それならば」と一瞬心が動いたが、気ごころを知った使者のひとことが気にかかった。
「物言いに気をつけよ」。罠だと悟った。
応諾すれば「謀反の心あり」として斬り殺される。数十年の間、皇位継承をめぐっては、同じ謀略が繰り返されて来た。
「私も病がち、とてもその任には」と兄の申し出を断り、「きょう出家して仏道に入る」と言い残すと控えの仏間ですぐさま剃髪し、皇太弟として託されていた武器を国庫に戻し、吉野の山を目指した。
「仏門に入ったとなれば、無茶な追い討ちもできんな」と兄は考えつつも、吉野に下った弟の動静監視を怠らなかった。
弟は写経、読経三昧で二心のないことを見せる。こう着状態のままで翌々月、天智は崩御する。
後継者を血縁から選ぶにしても、側近として経験豊富な弟にするか、若くとも決して裏切ることのない息子とするか、だれしも迷う。親なれば子への想いはひとしおのものがある。
と書けば、どこにでもある下世話な跡継ぎ争いになってしまうが、大海人には、後継争いを越えたより大きな国家像が見えていた。
兄は軍事クーデターで大豪族の蘇我氏を滅ぼし(645年)、翌年断行した大化の改新で皇族中心の律令国家を目指したものの改革は中途半端で、特権を取り上げられた豪族たちの巻き返しにあっている。
百済一辺倒の朝鮮半島外交では、唐・新羅の挟撃にあって滅んだ百済の再興をしゃにむに支援し、白村江の戦い(663年)で派遣した水軍が惨敗を喫して、唐の本土追撃におびえ、飛鳥の都まで放棄した。
「これでいいのか」。常に兄に寄り添い従ってきた大海人は、激動する国際情勢を思うにつけ、「今こそ大胆な国家改造が求められている」と、読経三昧の吉野で考えていた。(この項、次週に続く)