不安定な国内事情と対外摩擦の利用
友邦の百済が大国唐と新羅の連合軍に攻撃され滅亡したことは、7世紀中盤の日本(当時は倭国)にとって未曾有の危機だった。大豪族蘇我氏の朝廷への影響力を排除したクーデター・乙巳(いっし)の変(645年)に続く中央集権国家体制の構築作業も著についたばかり。何よりも大王位(のちの天皇位)の後継争いも錯綜していた。朝鮮出兵を決断した女帝・斉明(さいめい)が、二度めの大王位を継いだのも、宮廷内の騒乱を避けるためだった。
斉明の息子の中大兄皇子(のちの天智天皇)が後継の最有力と見られていたが、従弟の有間皇子(ありまのみこ)と、激しく大王位を争っていた。
有間皇子がクーデターの疑いをかけられて殺されたのが658年。その二年後に百済が滅ぶ。権力を掌握しきれない中大兄は執政の地位にとどまったままだ。斉明、中大兄母子の出兵決断は、戦役で成果を上げてその手柄で権力基盤を万全のものにする思惑があった。
いつの世も、内政が不安定であればこそ、対外戦争に目をそらせて、政権の求心力を高め官僚・国民を掌握しようとするのが権力者の常なのだ。プーチンのウクライナ侵攻、トランプのベネズエラ攻撃と大統領拉致、習近平の台湾周辺での大軍事演習。最近の世界で起きていることも軌を一にしている。
朝鮮半島への影響力拡大工作
中大兄は、百済から外交人質としてとっていた百済王子の豊璋(ほうしょう)を王位継承者として護衛の兵五千をつけて百済の故地に送り返すことになる。送還に際して朝廷は、豊璋に国内最高位の織冠を与えている。朝廷の臣下として送り出したわけで、再興した後の百済の王室を朝廷の支配下に置くという意思表示だ。そうならば、もはや百済は友好国ではなく、日本の出先、ありていに言えば、植民地として遇し朝鮮半島に拠点を築くということになる。戦前の一時期、日本が満州国を建国し、滅んだ清朝の最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を皇帝に据えて傀儡国家を成立させたのと同じ構図だ。
百済は義慈王、王族が長安に連行されて国家としては滅んでいる。当時の巨大帝国・唐と、その支援を受けた新羅を相手に、海峡を越えて数万の兵を送り込み、一国を立て直すという計画に成算はあったのか?
誇大妄想とも思える過剰な自信は、斉明時代の東北地方の蝦夷征伐で急速に拡大した遠征海軍力への自負があった。16世紀の豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮出兵といい、太平洋戦争での無謀な対米総力戦といい。どうもこの国の為政者は、時に冷静な判断ができなくなるようだ。
白村江(はくすきのえ)の大敗北
旧百済の現地では百済遺臣の将軍、鬼室福信(きしつ・ふくしん)が国を失った約3万人の遺民たちをよく組織し、遊撃戦法を駆使して大軍を相手に健闘していたが、新たに参戦した豊璋の軍との間で戦術をめぐっていざこざが絶えず、豊璋は意見する福信を殺害し、組織的な戦闘能力を失ってしまう。
日本からの救援軍2万7千は、663年10月、800余の軍船に分乗して王都から黄海に注ぐ大河、白江の河口近くの白村江で唐の海軍と最終決戦に挑む。
船の数なら日本軍は、唐軍の数倍もあったが、上流に陣取った大型船中心の唐軍は鶴翼の陣を敷いて日本の軍船を押し囲み、二日にわたる四度の激突で日本の水軍は壊滅した。
朝鮮の史書「三国史記」は、「敵の船四百艘を焼いた。その煙と炎は、空をこがし、海の水を赤く染めた」と書きとどめている。日本側の死者は約1万人。凄惨な敗北だった。
現地を訪れたことがあるが、海を越え勝利の展望のない戦いで散った日本各地から狩り集められた海人たちの無念を思った。
天皇の地位に上った天智は、この敗戦後、大国唐が日本に攻め込む恐怖におびえながら対外政策の練り直しを余儀なくされるのである。(この項、次回に続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
「日本の歴史2古代国家の成立」直木孝次郎著 中公文庫
「白村江 古代東アジア大戦の謎」遠山美都男著 講談社現代新書
「三国史記 百済本紀」金富軾著 林英樹訳 三一書房





















