日米和親条約から4年後の安政5年(1858年)に米国との間で日米修好通商条約を結んだ時の大老、井伊直弼(いい・なおすけ)は、明治維新を成し遂げた勝者による薩長史観では、天下の極悪人である。
確かに同条約は、治外法権を認め、関税自主権を放棄するなど不平等なもので、明治政府を悩ませ続けるが、締結当時は「不平等条約」として問題になったわけではない。
井伊直弼は、条約締結の2年後に江戸城桜田門外で水戸浪士、薩摩藩士らのいわゆる尊王の志士たちに暗殺される。殺害動機は、「勅許(天皇の許可)を得ずに条約を結んだ」ことであった。
直弼の大老就任時、米国総領事ハリスと幕府の間で通商取り決めの下交渉はすでに大詰めを迎えていた。直弼は、「勅許を得るまで、締結は先延ばしせよ」と、強く命じた。
江戸期の政治が、権威(天皇・朝廷)と権力(将軍・幕府)の二重構図であったことは書いた。重要な外交案件について形式的には権威の裁可が必要なことを、信念の開国論者の彼も踏まえていた。朝廷の説得を続ける。
しかし、時の孝明天皇は、根っからの攘夷論者であった。国際情勢を踏まえての判断ではない。「神国日本を夷狄(いてき)の蹂躙(じゅうりん)に任せるわけにはいかない」という、ある種ファナティック(狂信的)なものだった。政治経験のない取り巻きの公家たちも、開国の恐怖に怯えるばかりで、空想的な「攘夷実行」を幕府に要求した。
「それができぬなら幕府は頼むに足りない」という倒幕の論理に後に転換するが、そこまでの考えはまだない。説得の余地はあった。
公家の一部には、「政治・外交は幕府に任せるのがよい」との冷静な判断もあったが、尊王派の志士たちが朝廷に吹き込む「攘夷論」を打ち消すには至らなかった。
それでも「勅許を得るまで待て」という直弼に対して、幕閣の中にも「これ以上引き延ばすと米国は戦争をしかけかねない」と反発が強まる。現場は、調印を強行してしまった。
外交とは、外圧と内政のはざまで厳しい決断を問われるものである。必要なのは、タフ・ネゴシエーター(粘り強い交渉人)であるが、直弼と彼の交渉役は、朝廷の狂気に対して説得の努力を欠いたまま、目の前の外圧に怯え屈してしまう。
無勅での条約締結は、「開国か攘夷か」の政治局面を、「討幕」へと一気に変換させた。
直弼は、説得による国論統一を断念し攘夷派の大弾圧に乗り出す。パンドラの箱が開いた。(この項、次回に続く)