秀次事件
天下を取った豊臣秀吉の後継者をめぐる方針の揺れは、多くの混乱と悲劇を生むが、その最たるものは、秀次(ひでつぐ)事件(1585年=文禄4年)だった。秀吉から、朝廷の天皇を補佐する最高地位である「関白」の称号を引き継ぎ、だれの目にも豊臣政権の後継者として映っていた秀吉の甥である豊臣秀次が突如失脚、割腹して果てたのだ。
秀次が秀吉から関白の地位と豊臣家の家督を譲り受けたのは、四年前のこと。形の上で秀吉は隠居の立場となるが、実際には、企業で言えば、代表権を持ったままの会長の立場になったようなもので、内政の実務は秀次に任せ、本人は、「太閤」の立場にのぼり、懸案の「唐入り(朝鮮出兵)」に専念し、天下に号令している。仮の後継を決めたままで、ある種の二重権力が構築されていた。
事件の年の7月、突如として秀次に謀叛の疑いが持ち上がる。鷹狩りにかこつけて、側近たちを野山に招き、秀吉打倒の挙兵を相談しているという内容だ。秀吉の命で石田三成ら奉行たちが秀次に釈明を迫った。秀次は謀叛の疑いを否定するが、側近への圧迫は日に日に厳しくなる。7月7日、秀次は遁世して身の潔白を示すため、家臣の一部を連れて居城の京都聚楽第を出発し高野山に向かう。数日後、秀吉から高野山での秀次幽閉の指示書が出される。
15日、秀次切腹。前後して秀次に従っていた側近の豊臣家臣たちが一斉に粛清される。8月2日には、秀次の妻子や女房ら三十数人が、京都三条河原で惨殺された。
謀叛計画に関する具体的な証拠はおろか、秀次が秀吉に不平を持っていたことは未だ証明されていないが、秀吉に実子の秀頼が誕生したことと、秀次粛清の関連は明らかだ。惨殺された中には、秀次が公家から迎えた正室(一の台)も含まれており、その父も島流しにされた。秀頼後継計画に邪魔するものは公家であれ容赦しないという朝廷向けの脅しでもあった。恐怖政治である。
関白世襲戦略
秀吉は天下を取った後、唯一の対抗権威である朝廷を取り込むことを計画する。室町幕府が代々、征夷大将軍という軍事権威を朝廷から認められる形を取ったのと違い、秀吉は、朝廷内で天皇に次ぐ地位である関白職に就くことで政権の権威を高め、武家に対抗しようとする公家を押さえ込もうとした。そのために公家の間の政争に食い込んで、1585年(天正13年)、関白職を手に入れた。
となると、代々安定して豊臣政権を維持するためには、実子による世襲が望ましい。しかし、この時点で秀吉に実子はいない。関白世襲の計画が具体的に動き出すのは、側室・淀君との間に待望の鶴松が誕生した1589年からのこと。鶴松への世襲を目指すが、成人するまでには間がある。それまでのつなぎとして白羽の矢を立てたのが秀次だった。彼ならコントロールできると踏んだ。
実姉の長男だからというだけでない。幼いころから政略工作の人質として宮地、三好両家の養子に出されて一族に貢献している。さらに家康との決戦となった小牧長久手の戦いで、別働隊の大将に抜擢したが失策で大敗している。その時、折檻状まで出して、「打ち首を許してやるから豊臣家に尽くせ」と押さえ込んである。彼なら歯むかえないと考えただろう。
鶴松は2年後に死んだが、やがて秀頼が生まれた。鶴松の時の戦略はそのまま「秀頼世襲―秀次後見」の計画にシフトしたわけだ。
秀頼まだ五歳で秀吉去る
秀頼誕生時、秀吉は57歳。当時としてはかなりの高齢の域だが、秀頼の成人元服までと考えると、70歳まで生きねばならない。秀次事件が起きた時の秀吉は59歳。事件前後、彼は持病で寝込んでいたとの記録もある。なんとか持ちこたえたものの、側近の間では「そろそろ覚悟せねば」との思いがあるほど病状はひどかった。「秀頼にかける」の思いが募れば募るほど、秀次に関するよからぬ噂は増幅されて耳に入る。老人病、一種の強迫症状の中で秀吉は判断を誤ったか。
秀頼後見を託したはずの甥っ子を信用できなくなる。そして秀次一族の粛清で、一門によって世襲を見守る体制は崩れ去る。それから3年。秀吉は隠居所の伏見城で世を去る。享年62歳。後継者の秀頼はまだ満5歳でしかなかった。(この項、次回へ続く)
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考資料
『秀吉と豊臣一族研究の最前線』河内将芳編 日本史史料研究会監修 山川出版社
『日本の歴史12 天下一統』林屋辰三郎著 中公文庫
『日本の歴史 15 織豊政権と江戸幕府』池上裕子著 講談社学術文庫


















