西郷隆盛が勝海舟からの面談申し入れを受け、勝が江戸芝田町の薩摩屋敷に乗り込んだのは慶応4年(1968年)3月13日のことであった。江戸城総攻撃は二日後に迫っていた。
東海道、中山道を進軍してきた官軍の兵士たちが江戸の町を取り巻き、殺気立つ市中を勝は従者一人を従え馬で出かけた。
一室で待つと、西郷は下駄の音を響かせて庭から現れた。「いや、 待たせもした」。旧知の西郷と対座しながら勝は激動の数年を振り返っていた。
かつて、朝廷の権威を回復した上で徳川をはじめ諸侯による合議体で政治を行う「公武合体」の主張に与していた西郷が倒幕に舵を切ったのは、勝のひとことだった。
「いや西郷さん、幕府はどうしようもないほど堕落している。もはや頼るに足りない」。その一言で事態はここまで動いてきた。
西郷と勝。立場は違っても志は同じだった。西欧列強は次々とアジア諸国を植民地化し、虎視眈々と日本を狙っている。旧体制ではこの難局を乗りきれない。日本を列強に伍していける強い国に変えねばならないと。
しかし、初日の会談は短時間で終わった。皇室から将軍家に降嫁した皇女・和宮の扱いだけを話した。
「どのような事態になろうとも和宮さまの安全は守る。決して人質に取ることはしない」
「わかりもした」。肝心の徳川家の扱いと幕閣・幕臣の責任追及論は、翌日に繰り越した。
決戦を前に切羽詰まらなければ、妥協点に至らないことを双方が了解していた。
この江戸開城談判について、よく西郷と勝の腹芸で決着したと評価されるが、そうではない。すでに江戸無血開城の条件は西郷から示され、勝も諸侯並みに徳川家を扱うようにとの意を伝えてある。
あとは、決断だけだった。
翌日、勝は再び薩摩屋敷に赴いた。
「あの時の談判は実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。おれは、ただ西郷一人を眼においた」と勝は後日、振り返っている。
西郷もまた、「勝なら下手な幕府の面子だけにこだわることはない。そういう男だ」。
二人の間には、強い信頼関係があった。
最後の談判が始まった。隣室では、桐野利秋ら血気盛んな薩摩藩士らが刀の小柄に手をかけて控えている。
残された時間は半日しかなかった。 (この項、次回に続く)