何のための人権宣言か
1789年7月14日、パリの民衆が蜂起し,圧政の象徴だったバスチーユ監獄を解放、占拠した。10年続くフランス革命のはじまりだ。大衆蜂起は全国各地へと燎原の火となり広がった。
そして8月26日、国民議会は有名な「人権宣言」を採択した。宣言は、第一条で、「人間は、生まれながらにして自由であり、権利において平等である」と高らかにうたっている。そして、▽主権が国民にあり、▽国民は参政権をもち、▽所有権は神聖にして不可侵である──などと定めた。
今となっては、この宣言が、近代世界の扉を開いたことを疑う者はいない。この精神は世界中に広がった。わが国でも、人権宣言から百数十年後の戦後になって制定された日本国憲法の骨格となって生きている。当時のフランス国民にとっては、行き詰まった矛盾だらけの古い体制を打ち破るための魂の叫びだったのである。
この宣言の精神である「自由」とは、単なるうわついた言葉だけではなく、近代資本主義に不可欠なものだったのだ。
アンシャン・レジーム(旧体制)と国力の衰退
18世紀のフランス社会は、裁判権、警察権を一手に握るブルボン王家を頂点にした「絶対王政」下の封建身分社会(アンシャン・レジーム=旧体制)だった。社会は三つの階層に分かれ、王権を支える聖職者(第一身分)、封建領主として農民を支配し免税の特権を持つ貴族(第二身分)、そして国民の大多数を占める農民と都市の商工人たち(第三身分)で、形づくられていた。
農民たちは、領主によって農業生産にかけられる高額の貢税に苦しめられて疲弊し、富を蓄えつつある都市の商工人たちも、商工活動の自由は規制され、国内でも領地間での商品移動に何かと課税され、自由な活動を阻害されていた。
17世紀以降、海外植民地経営と貿易で、フランスは、英国と勢力を二分していたが、いち早く産業革命に成功した英国の生産性が飛躍的に向上し、優秀で安価な工業製品が英国から流れ込んで、フランス経済は衰退の道を歩んでいた。それに伴い、王家の財政=国家財政も苦しくなり、疲弊した農民、都市の大衆への増税を繰り返す悪循環に陥る。
社会矛盾が増大すると、しわ寄せを一手に引き受けている下層民が爆発する。苦しい生活を強いられている農民は貢税の減免と自作地の拡大を求め、都市でその日暮らしを続ける庶民は、パンを求めて立ち上がった。これが革命の第一段階の暴動となる。その矛先は、根拠なく税免除の特権を持つ聖職者と貴族に向かった。
革命のバランサーを担うブルジョア
先の身分三分類で見たように、不満が蓄積する第三身分には、二種類の人々がいる。農村、都市の下層民と、商工人、知識人など都市の成功者(ブルジョア)である。成功者といっても、身分的には貴族、聖職者とは厳然と区別されている。貴族たちは、社会不安が高まるにつれ、ブルジョアたちを優遇し、味方につけようとする。都市の名誉職を当てがい取り込みに走ってきた。
だが、彼らは、どこまで行っても第三身分を脱することはない。貴族たちは、その商業活動を利用するけれど、会食での同席を拒むなど身分差別は続く。
そのブルジョアたちが動く。下層民たちがたち旧体制打倒に向けて動き出したのを見て、堅固に見えた体制を変革する時が来たと悟った。貧民たちの革命の側について、物申すようになる。媚びへつらう体制派の貴族たちを切り捨て、開明派の貴族を取り込み、イニシアティブをとる。革命運動が過激化すると、右に舵を切る。それを繰り返してフランス革命のバランサーの役割を果たすことになる。
彼らが掲げるのは、「自由と平等」の旗だ。それこそ発展的で持続的な商工業活動に不可欠であることにブルジョアたちは気づいていた。国内関税の撤廃、ギルド(閉鎖的同業組合)の廃止。
利害意識が、理想を生み出していく。リアリストであるからこそ、体制の行き詰まりを突破する力を、商工人は持てるのだ。だからこそ、フランス革命の理想は、近代資本主義の道を切り拓き、環境を整えることができた。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
※参考文献
『フランス革命 歴史における劇薬』遅塚忠躬著 岩波ジュニア文庫
『物語フランス革命』安達正勝著 中公新書
『世界の歴史 10 フランス革命とナポレオン』桑原武夫責任編集 中公文庫