江戸城総攻撃を翌日に控えた会談二日目、勝海舟は、江戸開城条件をしたためた書状を西郷隆盛に手渡した。
先に、西郷が勝に送った完全武装解除の6条件の返事である。
最後の将軍、徳川慶喜の扱いについては、倒幕に転じた雄藩である備前藩での預かりとあったのを、「隠居の上、水戸にて謹慎」と自主謹慎に和らげていた。
江戸城の明け渡しについては、「一度明け渡しの上、田安家(徳川一門)に預けること」と強気の要求となっている。
軍艦・軍備の即時引き渡しも拒否し、「一旦、封印」。幕臣の墨東への退去、謹慎には応じたものの、鳥羽伏見の戦いに罪ある幕閣・幕臣への厳重処罰については、「死罪としないこと」と押し返している。
勝にしてみれば、大政を朝廷に奉還した上に恭順の意を示しているのだから、徳川という旧権力を一雄藩として残せ、というこれまでの主張を一歩も譲らなかった。「決裂なら江戸を焼き払う」との秘策があったとはいえ、余りに強硬であった。
財政不如意の新政府側としては、徳川家を藩としても取り潰し、その所領400万石の経済基盤を引き継ぐのが腹であったから、とても妥協できない。
しかし文面に目を通した西郷は表情ひとつ変えず、こう言った。
「いろいろむずかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」
駿府の総督府へ、そこでだめなら京都で裁可を仰ぐ。「それまで、総攻撃は中止しましょう」と請け負った。4月11日、約束通り江戸城は開城され、流血の事態は免れた。
勝が強硬一辺倒で押し通せたのは、自らの論に理ありと信じたからこそだ。いや、それにもまして西郷という人物に絶大な信頼を置いたからであろう。
会談を終えて勝を見送った西郷は最後までおごることなく礼を尽くした。勝が江戸城に帰り着いたころ、城を取り巻いていた官軍はすでに退却し姿はなかった。
「このわずかの時間で約束通り軍令を徹底させ、脅しの兵も退かせる西郷という男、只者ではない」と勝は後年、振り返っている。
この国の将来はこの男に託してみよう。そう思ったという。
だが西郷は、やがて新政府に失望して下野する。そして明治10年、政府に反旗を翻して決起し敗れ、鹿児島で自決して果てた。