東海道新幹線実現のため国鉄総裁・十河信二(そごう・しんじ)から懇願されて技師長に就いた島秀雄の頭の中には、明確な新幹線像があった。
踏切のない独立した広軌の上を低重心で軽量の電車列車方式の車両を走らせる。送電方式は在来線の直流を排して効率のいい高圧交流とする。
車体には空気バネ、最高走行時速は210キロ、集中制御、自動列車停止装置システムの採用…。
島は戦前、技術者として蒸気機関車(SL)の設計を手がけD51などの名機を生み出し、戦後は湘南型電車の開発に取り組んだ。
しかし今回は、国鉄技術陣を総指揮する。現場から一歩引いて全体を見渡す立場だ。現場で培った知識を駆使して各部署を指導し、夢の実現に向かう。
システムコーディネートという。この総合プロデュース、技術マネジメント能力こそ、叩き上げの技術者でトップに登りつめた人間に求められる能力だ。
しかし、優秀な技術者であればあるほど専門にこだわり、全体を俯瞰して見渡すのはなかなかに困難なことだ。
島はその卓越したマネジメント能力を発揮し、個々の技術開発の足並みをそろえつつ、短時間でひとつずつクリアしていった。
「東海道新幹線は、それぞれに蓄積されていた既存の技術を活かして、現場のみなさんの創意工夫によって出来上がったものだ。私は技師長として、単にそれを取りまとめたにすぎない」。島の回想である。
その取りまとめこそ、マネジメントだ。
電車列車方式は戦後、湘南電車の設計で経験している。さらに島は就任後、新幹線を睨んで電車列車の運転距離を伸ばすため、在来線の東海道線で東京―大阪間を走る電気機関車列車「つばめ」に替わる新型電車特急の開発に取り組み、昭和33年11月、ビジネス特急「こだま」号による東京―大阪間6時間50分運行を実現した。
この「こだま」を使って、昭和34年7月には、時速163キロの試験最高時速を打ち立てる。すべては新幹線を見据えた技術蓄積を目指したものだった。
一方で、島は、昭和33年から本格化した新幹線車両設計でも、当時、近郊電車列車の高速化に取り組んでいた小田急の軽量車両、低重心化や、名鉄の空気バネなど、私鉄の新技術を大胆に取り入れて開発を急いだ。部品を製造する関連会社への技術指導にも全力を傾けた。
国鉄内にはびこる「官僚主義」を排除しての開発。それが可能だったのは、島自身が一度は組織の“お役所仕事”に絶望し国鉄を去った経験があったればこそだった。 (この項、次週も続く)