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マネジメント

人の心を取り込む術(6)一度会った人を覚える(田中角栄)

指導者たる者かくあるべし

地滑り現場で

 これもまた、筆者が新潟支局に赴任した春の経験だ。1984年(昭和59年)5月17日夜、新潟県長岡市郊外の中山間地にある蓬平(よもぎひら)集落を大規模な地滑りが襲った。この年は「59豪雪」と特筆されるほどの大雪の年で、最初の仕事となった豪雪被災地のルポがようやくひと段落したところで、地滑りも大量の雪解け水が引き起こしたものだった。人的被害はなかったものの、10戸が全半壊し、数ヘクタールの棚田と市道が大規模に流出した。
 翌日昼過ぎ、住民たちが呆然としている集落に一台の黒塗りの車が滑り込むと、「あっ、角さんが来てくれた!」と、住民たちが一斉に駆け寄る。地元、新潟三区(当時)選出の田中角栄が長靴姿で現れたのだ。このころ、田中はロッキード事件の公判中で、揺らぐ田中派の取りまとめで多忙だったが、地滑りの一報を聞くと翌日の日程をキャンセルして現地に駆けつけた。
 田中は泥だらけになりながら、現場を駆けまわり、住民たちの要望を聞いた。「よっしゃ、わかった、早急に対応を取らせる」。そしてある老女を見つけると、「よお、○○のおっかさん、おやじさんの病気は良くなったかね」と実名で呼びかけた。老女は感激のあまり、田中の手を握りしめて涙ぐんだ。「大丈夫だ、センセイも大変だけれども達者でやりなせぇ」。
 「これが新潟三区か」。豪雪ルポを通じて雪国暮らしの大変さにも驚いたが、巧なり名を遂げた政治家が地元の一大事に駆けつけて、そこで見せた住民との親密さにはさらに仰天した。片田舎の集落の一人の老女の名も家庭事情も把握しているのだ。
 同行した地元秘書が直前にささやいたのかも知れないが、「おれは、あんたを知ってるよ」との声かけが、どれだけ相手の心に響くかを田中は心得ている。人の心を取り込む魔法を効果的に実行してみせる。
 声をかけられた相手は、「死ぬまでこの人について行こう」と誓うだろう。これが、新潟三区で鉄の結束を誇った田中後援会〈越山会〉の力の源泉だった。

ギブ・アンド・テイク

 人間関係は、クールに言えばある意味でギブ・アンド・テイクである。政治家と有権者との関係は選挙という制度がある限り、その側面が強く出る。政治家は地元の要望を聞き、その実現のために動き、有権者は票という形でそれに報いる。
 旧新潟三区の小千谷市に塩谷という集落がある。屏風のような山に囲まれたわずか60戸ばかりの小さな村だ。冬には数メートルの雪に閉ざされ孤立する。住民たちは、無雪の道路とトンネルで小千谷市街地と結ばれることが悲願だった。陳情を受けた田中は、冬季の通行をはばむ山に12億円をかけたトンネルを抜く計画をぶち上げ実現した。
 「わずか60戸のために12億円の無駄遣いだ」と批判された塩谷トンネルだ。集票を目当てにした利益誘導の構図の象徴と言われた。しかし、60戸、百数十票のために、この集落にまで足を運ぶ候補は田中の他にはいない。こまめに集落をまわる田中に有権者は期待し、陳情する。それを裏切ることなく実現する。であればこそギブ・アンド・テイクの構図が成り立つ。
 一般に選挙では業界組織をマシーンとして動かした候補が勝つ。営業で言えばルートセールスだ。効率がいい。田中方式は飛び込みセールスだ。要望のあるところに御用聞きにまわる。そして要望を実現する。折々に田中本人が顔をみせる。膝詰めでの親密な対座が信頼感を築く。「おれ、お前」の関係が一度できれば、しばらく顔を見せなくても、「自分のことをよく知ってくれている隣りの角さん」の魔法は活きる。

味方を増やす

 高等小学校卒でありながら、田中は高学歴の役人たちを自由に操った。若い頃から斬新なアイディアで次々と議員立法に取り組んだ田中に、ともに仕事に取り組んだ官僚たちは、最初は「野卑で強引だな」と拒否感を持ちつつも、結果が出てくると田中ファンとして取り込まれて行ったという。
 魔法の一つは、地滑り現場でも見せた術である。一人一人の名前と省内での立場、事情を把握すること。入省年次と省内での派閥を知り尽くしていた。もう一つの魔法は、“利益誘導”である。かといって、いわれるように金、背広のお仕立券を配って取り込んだ訳ではない。役人がもっとも大切にする省益と身分保障(出世)の期待に応えることだったという。「角さんは、わが役所のこと、自分のことをよく知ってくれている。この人についていけば大丈夫だ」という信頼感を勝ち取っていった。
 田中角栄という政治家の魔法の正体は、実に単純だ。一度会った人の名前と立場を覚え、「自分のことをよく知ってくれている」「自分にとって役に立つ人だ」と信じさせることに尽きた。
 こうして田中は、人を味方に取り込んで行く。田中は人身掌握の極意をこう言い遺している。
 「できるだけ敵を減らしていくこと。世の中は嫉妬とソロバンだ。インテリほどヤキモチが多い。人は自分の損得で動くということだ。第二は、自分に少しでも好意をもった広い中間層を握ること。第三は、人間の機微、人情の機微を知ることだ」
 彼が情の政治家と言われる所以だ。

(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com

※参考文献
『田中角栄 頂点をきわめた男の物語』早坂茂三著 P H P文庫
『角栄の風土』新潟日報編 新潟日報事業社
『人を動かす天才 田中角栄の人間力』後藤謙次監修 小学館文庫

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