独立時は13州
アメリカの独立戦争を戦ったのは、英国統治下にあった東部の13植民地(以下、州と表記)だった。米国国旗に描かれる赤と白の13本のストライプはその名残りだ。その後、西部開拓で州の数は全米で50州に増えた。独立当時の人口は、13州合わせてわずか約220万人、当時市民権を与えられていなかった黒人奴隷を合わせても300万人に満たない小さな国だった。
そのアメリカが、今や人口3億3,800万人を数え、中国、インドに次ぐ大国となった。移民国家のアメリカが二百数十年で大きく発展したのは、広大な国土のおかげでもあるが、自由、平等をうたった建国の理念が世界中から人々を惹きつけたことにあることは間違いない。
その理想をうたったのが独立宣言であり、1788年に批准発効した世界最初の成文憲法である合衆国憲法だった。
アメリカは州の連合体
独立戦争当時、13州はそれぞれに経済基盤や政体運営方式において独立性が強かった。それぞれの政治運営方式を決める基本法(憲法)も独自に成立していった。英国からの独立を勝ち取るために、13州の代表による連合会議が結成されたが、統一的な国家運営までは委ねられていなかった。
連合会議は、戦争共闘のための軍事的色彩が強く、統合参謀本部のようなものだ。統一的な財政運営や外交も連合会議が扱ったが、連合の規定は、戦費調達、戦争遂行のための支援国獲得外交に重点が置かれ、経済面でも各州は、課税権を連合会議に委ねることには強く抵抗した。
明治以来、日本人はこの国の名称を、「アメリカ合衆国」と表記するが、英語表記では、the united states of America であって、文字通り翻訳すれば「アメリカ合州国」となる。この明治の大誤訳が、この国の基本的な性格を日本人に誤解させている。独立性の強い50州の連合体がこの国の基本なのだ。その後の歴史を見ても、対外戦争時には、強い大統領の下で強大な軍事、外交権を発揮する特異な政体なのだ。
とはいえ、独立戦争を勝ち抜いたアメリカの次の課題は、国家としての統一性だった。それをもたらした合衆国(連邦)憲法の制定に動く。
今に生きる憲法
憲法制定会議は、連合規定を本格的な連邦基本法に変えることを目指して、13州の代表によって、1787年5月14日にフィラデルフィアで招集される予定だった。だが、各州代表はなかなか集まらず、ようやく会議が開かれたのは、5月の25日だった。それほど統一基本法としての憲法制定への熱意は今ひとつだったのだ。議長を務めたジョージ・ワシントン(のちに初代大統領)が残した日記でも、「会議に出席したが、お茶とディナーをとっただけで宿舎で休んでいた」となんとも気の抜けるほどだ。
ともあれ、各代表が乗り気ではない憲法制定会議は、9月に入り、全七条からなる合衆国憲法を制定した。その前文で、「ザ・ユナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカ」との国号が初めて明記され、第一条で連邦議会、第二条に大統領、第三条に連邦最高裁判所の細目が規定され、啓蒙思想家たちが長年説き続けた「三権分立」の理想が盛り込まれ、今も民主主義の基本として、世界の憲法の手本となっている。
現代民主主義のバイブルの制定は意外にあっけないものだった。
しかし、制定時の規定は今も生きている。議会は上下院の二院で構成され、上院は各州平等に2人の議員を選び、下院は人口比で議員を割り振ることが定められた。大統領選挙は、各州で選挙人を選ぶ間接選挙で行うことが規定された。11月5日に行われる大統領選挙も、あのまどろっこしい形で行われる。
各州の独立性への制定時のこだわりが、今も選挙制度に反映されている。
基本的原則は決めたら変えない。それが民主憲法というものだ。
(書き手)宇惠一郎 ueichi@nifty.com
(参考資料)
『植民地から建国へ アメリカ合衆国史①』和田光弘著 岩波新書
『アメリカ革命 独立戦争から憲法制定』上村剛著 中公新書